過日、「「中外日報社」のあった場所」というエントリにおいて私は、賢治父子が1921年(大正10年)の関西旅行の折に訪ねた「中外日報社」は、全集の年譜などに記載されている「七条大橋東詰下ル」ではなくて、より北東の「妙法院前」にあったことを、記しました。そしてその場所は、「現在は旅館の敷地の一部になっている」と、書きました。
この記述に対して、ある方(かりにAさんとします)がご親切にも、種々の資料や写真とともにご指摘を下さり、中外日報社の旧社屋があったのは、「旅館の敷地の一部」ではなく、そこから細い道を隔てた北側で、現在は民家になっている場所だったことを、教えて下さいました。
しかも驚くべきことに、その「民家」というのは、中外日報社の旧社屋が(多少の手入れは施されながらも)、そのまま残っている建物だというのです!
もしそうならば、賢治父子が訪れた建物が今も見られるとは、何という僥倖でしょう。
さて私が、Aさんから今回ご教示いただいたのは、まず大正15年に移転する前の中外日報社の住所は、「妙法院前側町428番地」で、旅館の場所とは異なり、上記の「民家」の番地と一致するということでした。
そしてAさんは、昭和35年に「中外日報」紙上に半年にわたって連載されていた、「時光流転」という同社の歴史をたどる記事のコピーを送って下さいました。それが、下のものです(昭和35年7月9日付)。
記事の中央の写真が、中外日報社の旧社屋で、記事中には「大正時代は妙法院前側町、昭和園入口北西角にあり、今なお旧社屋は昔の姿のまま誰かの住居になっている。」と書かれています。
そして、下記の写真は、数年前にAさんが撮影された、「妙法院前側町428番地」の建物です。
玄関前の敷石の配列は、「中外日報」紙上の写真とまったく同じですね。窓の形・大きさや、瓦屋根の感じも、同一の建物であることを示唆してくれます。ただし、窓枠の色や、一階部分に「ひさし」のようなものが付いているところは、「中外日報」記事中の写真とは異なるようです。
しかし少なくとも、昭和35年の時点で「旧社屋は昔の姿のまま誰かの住居になってい」たのならば、この建物はその古さからして、その後にまったく新たに建てられたものではないでしょう。
多少の改装はなされているものの、たしかにこれこそ、「旧社屋」なのだと思います。
そして下の写真は、今日のお昼頃に私が現地へ行って写してきた、その建物の写真です。
玄関前の植え込みは、以前よりもぶ厚く茂っていて、建物そのものは外から見えにくくなっています。
ちょっと失礼して、脇の方から・・・。
ということで、以前のエントリにおける中外日報社の場所に関する記述は、ここでお詫びとともに訂正させていただきます。m(_ _)m
ああそれにしても、1921年(大正10年)4月のある朝、旅行中の宮澤賢治と政次郎の父子は、上の写真の建物の玄関に立ち、大阪の叡福寺への行き方を尋ねたわけですね。ちょっと感無量という気持ちになります。
中外日報社がこの社屋に入ったのが1907年(明治40年)とのこと、よくぞ現在まで取り壊されずに生き残っていてくれたものだと思います……。
つめくさ
おひさしぶりです。
北海道洞爺湖サミットが開幕しました。
それにしても、中外日報社屋記事は意外性に満ちていましたね。
前回エントリから情報が縒り合されてゆく先に、政次郎・賢治父子が訪れた建物に行きつくとは、なんとも感慨深いです。
ゆくゆくは京都地図を広げて、賢治が訪ねた個所に標識を立て、経路に色づけして、「ミヤケンと歩く京都地図」など作成していただければありがたいと思います。
夏の暑さにもお元気でお過ごしください。
hamagaki
つめくさ様、こんばんは。
「洞爺湖サミット」のために北海道では物々しい雰囲気になっているのかな、などと一瞬思いましたが、広く雄大な北海道のことですから、ほとんどの所では大丈夫なんでしょうね。10日ほど前に、京都で「G8外相会談」が行われた際には、京都の街じゅうが交通渋滞になったり、駅のコインロッカーが使えなくなったりして大変でした。
さて今回の経緯で、私が何よりも感激したのは、「大正時代の中外日報社の場所」についてすでに詳しく調査をしておられた方が存在して、なおかつその方が幸運にも私の記事を見ていてくださったことです。私にとっては、「間違い」が呼び込んでくれた「発見」で、まさに意外な方向への展開でした。
貴重な情報を下さったAさんには、いくら感謝してもしきれません。
それにしても「ミヤケンと歩く京都地図」、いいですね・・・。(^_^)
あっぷる すくらっふ
「ミヤケンと歩く京都地図」・・・
思わず笑ってしまいました。
私が「賢治大好き」なのを揶揄して主人が賢治を「ミヤケン」と呼ぶからなのですが・・・(私事でスミマセン)
それはさておき、ぜひ、私からも作成をお願いしたいです~(^o^)
かぐら川
「ミヤケンと歩く京都地図」いいですね。
ところで、前回の書き込みにこだわるようですが、賢治父子が中外日報を訪ねたのは叡福寺への行き方を尋ねるためだけだったのでしょうか。
この父子の旅がいったいなんだったのか、あらためて考えてみる機会にしたいと思います。伊勢神宮、延暦寺、聖徳太子ゆかりの叡福寺を訪れる旅は、日本の宗教の根源に立ち至る旅であり、浄土真宗への深い理解と帰依をもつ父政次郎であるがゆえに可能であったとはいえ、やはり一般の浄土真宗徒との旅としては異様な旅です。(賢治をダシにした?父政次郎自身の覚醒のための旅であった可能性も考えてみてもいいのではないでしょうか。いずれにせよ、政次郎を深く知ることが、賢治理解のためにも不可欠だという思いは深まるばかりです。)
hamagaki
かぐら川 様、こんにちは。
47歳の父親と、24歳の息子(いずれも満年齢)が、様々な交通機関を乗り継いで、宗教的なキー・スポットを順番に巡り、夜は旅館で枕を並べて寝る・・・。
それは確かにちょっと不思議な旅行ですね。この間、二人の間でどんな会話が、どんな心のやりとりが行われたのかはわかりませんが、父と子の間で何らかの「和解」が成し遂げられたのだろうと、私は感じます。
この旅行が一つの境になって、後に花巻に戻ってからも、息子が父に改宗を迫ったり、法論を挑んだりすることはなくなったのではないかと、私はばくぜんと感じているのですが、どんなものでしょうか。
ところで参拝先としては、まず「伊勢神宮」が、やはり不思議に思えます。賢治にとっては、日蓮の「法華曼荼羅」には天照大神も位置づけられていますから、参拝することに問題はないのでしょうが、政次郎にとっては、親鸞が『教行信証』において「神祇不拝」ということを書いている真宗門徒の立場としては、どうなんだろうと思ったりしていました。しかし、戦前の天皇制下にあっては、個人的にどんな宗教を信仰していようと、天皇を崇拝したり伊勢神宮に参拝したりするのは、何の違和感もなく当然のこととして行われていたことなのでしょう。(「不拝」を貫く方が、危なかったのでしょう。)
ちなみに、ちょっと暁烏敏のことについて調べていると、浄土真宗の中心的論客であった彼も、戦時中には「天照大神と阿弥陀仏との一味感得に立つ神仏習合観を抱き、親鸞における聖徳太子信仰と『十七条憲法』第一条の「和」を、『古事記』の天照大神の「和魂」の顕れと受けとめ、そこに大乗仏教の根本精神がある」などという主張をしているのを知りました(「真宗仏教徒の戦争観」より)。
時代はまだ違いますが、政次郎も賢治も親しんでいた暁烏敏のことなので、少し興味を引かれた次第です。
さて、目的地としての延暦寺は、若き日の親鸞は20年も、日蓮も10年にわたって修行をした場所ですし、叡福寺に関しては、親鸞は三日間の、日蓮は七日間の参籠を行った場所ですから、この二つの寺に関しては、父子対立の二宗派が枝分かれする「元」を訪ねてみたというのが一般的な理解の仕方でしょうし、私もそう思ってきました。
しかし、今回かぐら川様のコメントをきっかけに調べていると、磯長の「叡福寺」と、延暦寺で二人が訪ねたとされる「大乗院」は、親鸞の生涯において大きな節目となる「夢のお告げ」のあった場所だったことを、私は知りました。
19歳の親鸞が叡福寺において、夢の中に現れた聖徳太子から聴いたお告げは、「おまえの命は、あと10年余りしかないだろう。その命が終わる時、おまえは速やかに浄らかなところへ入ってゆくであろう。だからおまえは、今こそ本当の菩薩を深く信じよ。」という内容であり(「磯長の夢告」)、次に、それからまさに10年が経とうとする28歳の時に、親鸞が延暦寺の無動寺谷の大乗院において、夢の中に現れた如意輪観音から聴いたお告げは、「善いかな、善いかな、汝が願、まさに満足せんとす。善いかな、善いかな、我が願、満足す。」というもので(「大乗院の夢告」)、この後まもなく親鸞は比叡山を下りて、法然のもとに弟子入りします。
浄土真宗を厚く信仰する政次郎氏にとっては、親鸞の生涯におけるこの二つの重要な場所を訪ねるという意味も、大きかったのかもしれません。いわば「夢によって覚醒した」親鸞の、記念地とも言えるスポットです。
二人が伊勢神宮参拝の後に泊まった二見浦にある「二見興玉神社」は、「無事カエル」という御利益があるということで、政次郎が賢治の「帰宅」を秘かに願ったのではないかということを、以前に戯れに書きましたが、まあこれは考えすぎでしょう。
しかし、聖徳太子ゆかりの叡福寺の方は、賢治の短歌にも出てくる「十七条憲法」の第一条に、「和を以て貴しとし・・・」と出てくるところからも、父子の「和」を政次郎が願ったという意図は、潜在的に十分ありえたのではないかと思います。
kaguragawa
どの記事のコメント欄に書こうか迷ったのですが、ここに書いておきます。
もうご覧になったかと思いますが、「ひととき」というウェッジが出している雑誌(2012.3)に「宮沢賢治――心と身体にいただく“かがやきの雨”」という賢治の伊勢参拝の記事が載っています(「伊勢、永遠の聖地」という伊勢神宮紹介連載ものの70)。
筆者の千種清美さんは、伊勢での父子の行動や賢治の短歌を丹念に紹介したのち、短歌や“降りしきる雨の中、神前に父とぬかずいたとき、ふたりの距離は近づいていました。父の温かみを感じたのでしょうか、そしてそれが、賢治を厳しい求道生活の緊張から解き放ってくれたのかもしれません。(中略)その後、賢治は実家に戻り、農学校の教員となりますが、家族に改宗を迫ることもなく、また短歌を作ることもありませんでした。”と、書いておられます。
まだでしたら、ご一読くださればと思います。
hamagaki
かぐら川さま、ご教示ありがとうございます。
ネットで調べてみましたら、『ひととき』の2012年4月号ですね。これは東海道新幹線の車内で読める雑誌だったと思いますが、機会があればぜひ読んでみたいと思います。
それにしても、伊勢神宮の紹介記事においてわざわざ宮沢賢治が持ち出されるというのは、やはり世は賢治ブームの再来なんでしょうかね。
この大正10年の父子の旅行というのは、想像するたびに胸が熱くなるような感じがします。伊勢神宮にかぎることではないでしょうが、二人の間には、記録には残っていないいろいろな心の交流があったのだろうと思います。
ありがとうございました。