大沢温泉より北

 豊沢川に沿って、大沢温泉より北にも、いくつもの温泉が連なっています。

 大沢温泉の2kmほど北には山の神温泉、それから続けて高倉温泉、鉛温泉、そして一番奥に、現在は新鉛温泉があります。新鉛温泉は、「愛隣館」という大規模なビルの一軒宿が建つ最も新しい温泉地で、賢治の頃にはまだ開かれていませんでした。逆に、賢治の時代には、鉛温泉より北に位置する最奥の温泉は、「西鉛温泉」でした。

 鉛温泉にも、賢治は地質調査の折などに何度も宿泊していますし、童話「なめとこ山の熊」にも出てきます。しかし、宮澤家がプライヴェートで最も愛用していたのは、奥にある西鉛温泉だったようです。賢治の父も母も、一時は毎年のように保養に来ていたようですし、東京で結核を発症して帰ってきたトシが3ヵ月も療養し、その間に賢治の「歌稿〔A〕」を清書したのも、西鉛温泉でした。

 さて、鉛温泉の方には現在も、有名な「藤三旅館」が威容を誇っています。「千と千尋の神隠し」の湯屋みたいとか、「狸御殿」みたい、と言う人もいますが、これは本当に歴史を感じさせる見事な造りですね。

鉛温泉・藤三旅館

 鉛温泉の対岸には、「山祇神社」という小祠があって、その脇に「殉職碑」という石碑が建っています。これは、賢治の作品にもよく出てくる「鶯沢硫黄鉱山」の採掘で、命を落とした人々への追悼のために建てられています。

鶯沢鉱山殉職碑

 鉛温泉から北に数百m行ったところにある新鉛温泉は、より新しく大がかりなリゾート温泉のようです。

新鉛温泉・愛隣館

 しかしこの建物ができたのは最近のこと、前述のように賢治の時代には、鉛温泉と新鉛温泉の中間あたりに、「西鉛温泉」があったのです。この温泉は、現在は完全に廃業していますが、賢治一家の親しんだ温泉の跡地を見てみようと、今日は探索に出かけました。

 まず、鉛温泉からさらに少し北に進むと、幹線道路から川の方へ降りていく廃道があります。

西鉛温泉へ(1)

 これを下っていくと、金網の扉がありますが、幸い開いていますね。

西鉛温泉へ(2)

 すると、川面からは一段高い、開けた場所に出ます。

西鉛温泉・秀清館跡地

 ここに、その昔には「西鉛温泉・秀清館」があったのだろうと思います。ちょっとあたりを歩いてみると、露天風呂の残骸のようなものがあったり・・・、

西鉛温泉・露天風呂跡

 「温泉紀元」と彫られた石碑も、打ち捨てられていました。これはいったいどういう趣旨の碑だったのでしょうか・・・。

「温泉紀元」石碑

 わずかに残る西鉛温泉の廃屋(赤い屋根)と、後ろに遠く見える新鉛温泉(愛隣館)の建物の対照。

西鉛温泉跡と新鉛温泉の遠望

 西鉛温泉にあった「秀清館」という建物は、総檜造りの三階建て四階建ての建築で、花巻に疎開して保養のためここに滞在した高村光太郎は、これについて次のように書いています。

大変な建築道楽が建てた家で、文化財に指定したい位のものである。みんなくさびで止めてあったり、湯殿の入口に横にどさっと渡してある栗の棟木の大きさなんか、まったく驚く。障子にしても桟でいろいろな模様を形取ったりしてある。私も大分スケッチをしてきたが、ともかくこの建物を見るだけでも西鉛へ来た価値は充分にあると思う。

 上に見えている赤い屋根の建物は、もちろんそれより新しく建てられていたものでしょうが、光太郎や宮澤家の一族が滞在した豪華な建物が今も残っていたら、どんなに素晴らしいかと思います。

 今日私が訪ねたのは、残念ながらその「夢の跡」でした。