遮られた記憶~賢治と金田一家の人々(4)~京助篇

 宮澤賢治と金田一京助は、生涯に一度だけ直接会っているようですが、賢治の方は、それについて何も書き残していません。
 金田一京助は、「啄木と賢治」という短いエッセイに、その時のことを簡単に記しています。

 ただ、その「啄木と賢治」という文章には、細かく見ると微妙に異なった二つのバージョンがあるようなのです。(1)『四次元』号外ー宮澤賢治思慕特集(1957)に掲載されたものと、(2)金田一京助随筆選集第二巻「思い出の人々」(1964)に収められているものです。

 まず、前者(1)では、賢治との出会いについて、次のように書かれています。

 賢治は、法華経の信者でその苦心の「国訳妙法蓮華経」の一本は私なども恵投に預かったが、それよりも、盛岡高等農林卒業後、上京して田中智学師の法華経行者の一団に投じ、ある日上野の山の花吹雪をよそに、清水堂下の大道で、大道説教をする一味に交り、その足で私の本郷森川の家を訪ねて見えた。中学では私の四番目の弟が同級で、今一人同じ花巻の名門の瀬川君と三人、腕を組んで撮った写真を見ていたから、顔は知っていたのだが、上野でよもやその中に居られようとは思いもかけず、訪ねてみえたのは、弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった。一、二語、私と啄木の話を交えたようだったが、外に大した用談もなし、また、私から、下宿はと聞かれて、しかとした答はなく、寝るくらいはどこにでも、といった風で、結局、田中智学先生を慕って上京し、あの大道説教団の中にいたということだったのには、私の顔が、定めしけげんな表情をしたことだったろうと恥ずかしい。

 次に、(2)において同じ部分は、次のようになっています。

 賢治の方は法華経の信者で苦心の「国訳妙法蓮華経」一部は私も送っていただきましたが、いつの年でしたか、ある時本郷森川町の私の寓へひょっこりたずねてみえたことがありました。中学時代、私の四番目の弟が同級で、いま一人同じ花巻の名門の瀬川さんと、三人で腕をくんでとった写真がありましたので、かなりお親しくしていたことが、わかっておりましたが、私の寓にみえましたのは、それで弟をたずねてみえたのでしたか、それとも、弟が亡くなっていて弔問の意味であったのでしょうか、それとも、直接に私自身をたずねられたのでありましたか、一、二語啄木のうわさなどした記憶がありますが、私は東大におりましたので、もしか東大入学というふうな心をもって訪問されたかと思ったら、そうでもなかったようです。また下宿でもたずねているのかと思ったらそうでもありませんで、結局、田中智学先生を慕って上京し、その大道説教団の中にいる、と話された時には、さだめし私の顔がけげんな表情をしたことだったでしょうと思います。その数日前に、私は上野の清水堂の下の大道に、田中さんの大道獅子吼の姿をみうけて返ったことだったのですから。

 賢治が東京で田中智学の説教団の中にいたというのですから、二人が出会ったのは、1921年に賢治が家出して上京していた時代のことですね。

 さて、「啄木と賢治」の二つのバージョンの相違点を整理してみると、次のようなことが気づかれます。
 まず一つは、(1)では、賢治が上野の大道説教団にいた「その足で」、金田一の家を訪ねて来たと書かれていますが、(2)では、金田一が上野で田中智学を見かけたのは賢治の訪問の「数日前」だったとされていることです。
 もう一つは、弟の他人に関する記述です。(1)では、「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった」と記されていて弟の死には触れられず、(2)では、「弟をたずねてみえたのでしたか、それとも、弟が亡くなっていて弔問の意味であったのでしょうか」と、一応弟の死に言及されています。

 ここで重要なのは、金田一京助の弟で賢治の同級生だった金田一他人は、「他人篇」でも述べたとおり、すでに前年の1920年11月に、自殺して亡くなっていたということです。
 賢治が訪ねてきた時に金田一京助が、弟の死を失念していたということはありえませんから、(1)にある「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたのかと思ったが」というのはおかしな話で、少なくともこれは、金田一が賢治来訪時に「思った」ことではありえません。これは金田一が、この「啄木と賢治」という文章を書く時点で、「あの時賢治が来た目的は何だったのか」と、記憶をたどり推測している中で「思った」ことでしょう。
 7年後に文章に手を入れた際には、さすがにこの時すでに弟が亡くなっていたことに気づいて、「弔問の意味であったのでしょうか」と付け加えていますが、やはりこれとて、1964年時点の金田一京助が、「推測」していることにすぎません。

 つまり、この二つのエッセイを書いた時点で金田一京助は、「賢治がなぜ自分を訪ねて来たのか」という来訪目的について、まったく憶えていなかったのです。
 (2)の方でも、「東大入学」が目的だったのか、「下宿探し」が目的だったのか、などとあれこれ書き連ねて迂遠な印象を与えますが、これも、訪れた賢治が意図不明のあいまいな態度に終始したということではなくて、金田一京助が執筆時点であれこれ記憶をまさぐっているためなのでしょう。
 しかしそれにしても、賢治の来訪目的は何だったのでしょう。


 ところで、この時の二人の出会いについては、もう一つ別の伝承もあります。森荘已池著『ふれあいの人々 宮澤賢治』に収められている、「金田一先生とバッタリ」という一節です。

 筆者(森荘已池)が昭和14年に上京したとき、東京で賢治の親友藤原嘉藤治氏に伴われて杉並の金田一京助氏邸でうかがった寸話である。
 金田一先生が上野の坂下を通りかかると、国柱会の旗を立てた大道説教に人が集まっていた。
 そこに金田一先生が通りかかると、教団の中からひょっこり出て来た宮沢賢治が、ていねいに金田一先生におじぎをした。
 金田一先生の弟さんと賢治は、盛岡中学校で同級生だったので、金田一先生は賢治を知っていた。
 突然の路上のこととて、先生は驚かれたが、ニコニコ笑っている賢治は、いつも屋外にいるらしく、たくましい顔いろだった。
 金田一先生は、賢治が「バレイショを食べ、水を飲んでいます」ということに、 「はァ、そうですか―」と答えて、破顔一笑した。(後略)

 これは、上の金田一京助自身の記述と比べると、「上野の大道説教団」など共通部分もあるのですが、その説教団から賢治が直接出てきて会ったことになっていて、賢治が金田一の自宅に訪ねたという話ではありません。
 これは、やはり金田一京助本人の書いた方が正しくて、森荘已池が金田一の話を聞いて勘違いしたのか、1970年にこの話を新聞連載に書くまでの間に、頭のなかで記憶が変化してしまったのか、いずれかでしょう。
 佐藤竜一著『宮沢賢治の東京』では、上記の森荘已池の記載を下敷きにして、こちらでは上野公園で出会った後、賢治がその足で金田一の家を訪ねたとしていますが、これも同様です。この出会い以前の段階では、東京の街中で偶然出会って相手の顔を同定できるほど、一方が他方の顔をよく知っていたとは思えません。


 文献的には以上のようになっているのですが、ここで私として考えてみたいのは、さっきも少し書いたように、この時賢治が金田一京助を訪問した目的は何だったのか、ということです。賢治にしてみれば、わざわざ金田一京助の住所を調べて訪ねているのですから、別に意図もなくぶらりとやって来たとは思えません。いったい何が目的だったのでしょうか。

 結論から言うと、私の考えでは、これはやはり賢治が同級生他人の死を悼んで、弔問のために訪れたのだと思うのです。
 賢治が上京したのは1921年1月下旬でしたが、花巻を出るまでに、すでに金田一他人の自殺については知っていただろうと思われます。地元の「岩手日報」には、賢治が家出をした「事件」さえも二度にもわたって掲載されるくらいですから、今をときめく金田一財閥につながる東大生が自殺をしたとなると、さぞ大きな記事が載ったことでしょう。それを、かつての同級生である賢治が目にしなかったとは考えられません。
 金田一京助は、賢治たちが盛岡中学校で同級生になった時点ですでに東大の学生でしたから、賢治は他人から、兄が東大に行っていることは聞かされていただろうと思われます。ひょっとしたら石川啄木と親交があることも、聞いたかもしれません。
 東京で本屋や図書館に行けば、『あいぬ物語』(1913)や『北蝦夷古謡遺篇』(1914)など金田一京助の編書や著書がすでに並んでいたはずですから、ひょっとすると東京に出てきてから賢治は、これらを手に取っていたかもしれません。
 いずれにしても、亡き同級生の兄であり郷土の先輩でもある「金田一京助」が同じ東京に住んでいると思うと、賢治は弔問に訪れたい気持ちを抑えられなかったのではないでしょうか。

 私が賢治の訪問を、弔問のためと考える理由は、ちょっと逆説的ですが、上の(1)にはそのようなことが全く触れられず、逆に「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたか」などと、ピント外れのことが書かれているからです。(2)の方には、「弔問の意味であったのでしょうか」と少しだけ触れてはいますが、会見の中で当然話題となったであろうその弟の死のことについて、内容的には全く触れられていません。
 (1)の文章について、牛崎敏哉さんは「宮沢賢治における金田一京助」の中で、「書き方は不自然」「どこか不思議な文章」と書いておられますが、まさにその通りで、これは本当に不可解な文章です。

 私は、金田一の文章のこの部分が、これほど不自然になってしまっている理由は、数ヵ月前の弟の自殺が、それほどまでに彼に大きなショックを与えていたからだろうと思います。
 人間は、外傷的な体験=トラウマに遭遇すると、その後は当該の出来事や周辺の事柄についてなるべく考えずにいようとする心理的機制が働くので、関連事項の記憶があいまいになったり、何気ない記憶がすっぽりと抜け落ちていたりすることがあります。そのような人の「回想談」を聞くと、肝心のところがぼかされているようで、独特の迂遠さや不自然さを感じるものですが、まさに上記の(1)(2)の金田一京助の文章は、そのような論旨の典型です。
 すなわち、彼が賢治来訪の目的を失念してしまったのは、それが彼にとって最もつらい記憶=弟の自死に関わることだったからではないかと、私は考えるのです。

 この日、賢治は亡き同級生に対する哀悼の辞を述べたくて、兄京助の住居を訪ね、彼の東京での最期の日々について、話を聴いたのではないでしょうか。敬愛していた学年一番の秀才だったのに、前途も洋々たるものだったはずなのに、なぜ自ら死を選んだのか、友として尋ねてみたかったのも無理はないと思います。
 『身も魂も 金田一他人遺稿集』によれば、亡くなる数日前にも他人は兄を訪ね、人生についていろいろと質問しています。これに対して、ちょうど間もなくアイヌ語に関する特別講演を京大で行う予定を控えていた京助は、その準備に忙しく十分に答えられなかったので、弟に誤解を与えていたかもしれないと、述べています。そのような心残りと罪の意識をかかえた兄に対して、賢治はいったい何と言って慰めの言葉をかけて上げられたでしょう。
 もちろんこのような話以外にも、「啄木について一、二語」、また下宿についての話もかわされたかもしれません。しかし、会談の中心は、金田一京助によっては書きとめられなかった、上記のような対話だったのだと思うのです。

 下の地図のように、当時の賢治と金田一京助は、実はごく近くに住んでいました。マーカー(A)が賢治の下宿、(C)が金田一京助の家で、直線距離にすると280mくらいしかありません。(賢治が勤めていた文信社は(B)です。)
 家がこれほど近かったことから、牛崎敏哉さんは「宮沢賢治における金田一京助」において、「それならなぜ賢治が京助を訪ねたのが一回だけなのかなど、様々に憶測が生まれる」と書いておられます。

 一回しか訪問しなかった理由として私が想像するのは、この時の二人の会見は、賢治にとっても金田一にとっても、とても悲しくつらいものだったので、あえて賢治も再訪を遠慮して、一回だけに終わってしまったのではないかということです。
 ただ、この年の6月に東京で「啄木会」が結成された時、賢治が「同志名」に名を連ねたのは、この会見の時に金田一京助から誘いがあったからかもしれません。この会の設立のために、金田一京助は大きな貢献をした人だったからです。
 もしもこの啄木会の会合があったとすれば、その時に賢治と金田一京助は、二回目の顔合わせをしていたでしょう。

 そしてさらにその後、これは牛崎敏哉さんが「宮沢賢治における金田一京助」において明らかにしてくれたことですが、1923年の8月、それぞれ鎮魂の旅をしていた二人は、ある所で不思議なニアミスをします。それは、牛崎さんが「時空間の運命的共時性」と表現された現象ですが、その詳しい内容については、岩手日報社刊『北の文学』第50号所収の同論文を、ぜひご一読下さい。

上野清水堂の桜
安藤広重「名所江戸百景」より「上野清水堂不忍之池」