1.1933年9月11日付け賢治から柳原昌悦あて書簡[488]より
私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸くじぶんの築いてきた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。
2.ガルブレイス『バブルの物語』(1990)より
1929年はまた、陶酔的熱病(euphoria)のエピソードに共通するあらゆる要素が明白に備わっていたこと、特に金融上の革新と称せられたものに対する強い傾倒があったことによっても記憶されている。この金融上の革新とは、いつものことながら、「てこ(レバレッジ)」の驚異が再発見されたこと、ならびに天才としてもてはやされた人が続出したことなどである。楽観論の上に楽観論が積み上がって価格を上昇させた。そして、暴落が起こると、結局のところは、前には天才だと考えられていた人たちの精神的・道徳的なひどい欠陥が見つけ出され、そうした人たちは、忘却の彼方に沈むだけならまだましな方で、ひどい場合には、世間から誹謗されたり、投獄されたり、自殺したりした。1929年およびそれに続く数年間に、すべてこのようなことが実際に起こったのである。
3.ガルブレイス『バブルの物語』日本語版への序文(1991)より
最近の日本経済を見ると、株価の高騰とそれに続く鋭い反落とが印象的である。努力することなしに自分が金持ちになっていくのを目のあたりに見て、しかも自分は当然それに値するのだと信じている人たちがいるものであるが、そうした人たちの心を貫き支配しているあの熱狂が東京証券市場に存在しないと考えるのはむずかしそうである。
4.オバマ大統領就任演説より(2009.1.20)
我々の経済は、ひどく弱体化している。一部の者の強欲(greed)と無責任(irresponsibility)の結果であるだけでなく、厳しい決断をすることなく、国家を新しい時代に適合させそこなった我々全員の失敗(our collective failure)の結果である。
◇ ◇
上に引用したように、賢治が死の10日前に書いた手紙には、「今日の時代一般の巨きな病、『慢』といふもの」という言葉が出てきます。このような時代認識にも、きっと何らかの出典があるのでしょうし、できればいつか調べてみたいと思います。
とりあえずはここで、そのような考え方の時代背景を推測してみると、
- 第一次世界大戦後の好景気で「成金」が登場して、金に任せて傲慢な振る舞いをしたり、一方で「大正ロマン」と呼ばれる自由主義的な文化・思潮が流行した時代につづき、
- 1929年(昭和4年)に始まる世界恐慌が、日本においても昭和恐慌となって経済・産業に深刻な打撃を与え、好況時代の慢心を反省し戒める風潮が強まった
というような情勢変化と、これは関連しているのだろうと思います。
もちろん、賢治は経済的な意味での「慢」とは生涯無縁でしたし、「天才としてもてはやされた人」ではなく、当時は隠れた、真の天才でしたが。
ただ、問題が「時代の病」と言われる現象であるためには、このような社会全体の動きが、深く関わっていただろうと思うのです。
ちなみに、経済が好景気から一気に不況に陥る際には、この1930年代当時にも、1990年代日本のバブル崩壊後にも、サブプライムローンの信用破綻に端を発した現代の世界不況においても、しばらく前までの自分(たち)の「慢」を戒める言説が一世を風靡するという歴史は、繰り返されているようです。
ちなみに、「慢」は仏教にいう「六煩悩」(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)の一つで、オバマ大統領が挙げている強欲(greed)は、傲慢(pride)とともに、キリスト教の「七つの大罪」に属します。
和田邦坊「成金栄華時代」(1928)
雨三郎
上で引用された柳原宛の痛ましい書簡を読むとき、当方はついイエスの最後の言葉「わが神よ、なぜ私をお見捨てになったのか」を思い起こしてしまいます。
もちろんイエスと賢治は同列に扱われるべき存在ではないし、賢治は「神の子」や聖者のような存在に祭り上げられるべきでは決してないと思います。しかし両者ともおのれのありったけの誠実と命を賭けて自分なりの理想を追求しようとしたあげく、不本意のまま悲劇的な形で生を終わらなければならなかったという点では相似形にあるように思われるのです。
それならば賢治は全くの救いない絶望と傷心のうちに世を去ったのかと訊かれれば、やはり当方としては肯定を躊躇せざるを得ないのです。上の痛ましい書簡を念頭において絶筆の二種の短歌(「方十里・・」、「いたつきの・・」)を読むとき、当方は異様な感動に襲われるのですが、それはこの二首が、悲劇的なおのれの生涯を、何か輝かしく微笑みながら俯瞰し、祝福しているもののように見えてくるからです。(また「慢」という主題から外れたことをコメントしてしまいました。どうか悪しからず。)
hamagaki
雨三郎さま、コメントをありがとうございます。
実は私としては、上記のような文脈において賢治のこの痛ましく尊い書簡を取り上げることに、抵抗感もありました。賢治自身は「今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へた」と書いていますが、彼が『春と修羅』を書き、その「序」で宣言したことは、私としては何ら「慢」ではなく、まさに類い稀なる感受性と言語感覚に基づいた、壮大な企画であったと思います。それを賢治があえて「慢」と表現したのは、彼の自己への厳しさと、その後の傷心のなせるわざだったのだろうと、思います。
今回の記事では、賢治の実際の姿というよりも、賢治がわざわざ自分の身を押し込めようとした「時代の病」の背景について触れようとしたのですが、何か賢治を卑小化しているような後ろめたい感覚は拭えませんでした。
そこへ雨三郎さまのコメントによって、別の角度から、本来の賢治の姿を浮かび上がらせるような照射をしていただいて、私としても救われた思いです。
柳原あて書簡と、絶筆短歌を、一つのつながりのもとに読むということを、これまで私はしてみたことがありませんでしたが、ご指摘のとおり、そこには崇高な眺めが開けてくる感じです。絶筆短歌を賢治が実際に構想したのが何日頃のことかわかりませんが、とにかく柳原あて書簡と10日以内しか離れていないわけで、同じ頃に賢治の胸の中にはあったわけですね。
貴重なお話をありがとうございました。