岩手山とくらかけ山

  岩手山

そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くえぐるもの
ひかりの微塵系列の底に
きたなくしろく澱むもの

 以前に「岩手山と澱粉堆」という記事にも書いたように、『春と修羅』に収められている作品「岩手山」は、賢治が生涯に何度も登って愛していたはずの岩手山という山を、なぜか否定的に、ほとんど嫌悪感も漂うほどに、描いたものです。
 これはいったいどうしてなのか・・・と思います。

 ところで、賢治が終生愛し、しかし他方で、どうしてもある種の否定的な感情を抱くことを禁じえなかった存在があります。
 それは、父親の政次郎氏です。

 この「岩手山」という作品は、ひょっとして父政次郎氏を象徴するものではないか、と思ってみたことがありました。
 「古ぼけて黒くえぐるもの」「きたなくしろく澱むもの」とは、質屋の暗い番台に黙って座っている、頑なな父親の姿ではなかったでしょうか。周囲には、「古い布団綿、あかがついてひやりとする子供の着物、うすぐろい質物、凍ったのれん、青色のねたみ、乾燥な計算」(書簡159)があります。
 店の外に出れば、「そら」や「ひかり」があるのに・・・。


 では、もしも「岩手山」が賢治にとって父親を象徴していたとすれば、母親を象徴するものは何でしょうか。
 それは、岩手山のふところに抱かれるように位置している、「くらかけ山」ではなかっただろうかと、私は思います。
 まず、岩手山に寄り添うくらかけ山の姿は、妻として、主婦として、家長・政次郎を支えた妻イチの姿を、彷彿とさせるものがあります。雄大で男性的な岩手山に対して、なだらかな曲線を描くくらかけ山の山容は、優しく女性的です。
 そして、賢治の「くらかけ山」に対する感情は、岩手山に対するものとはまた少し異なって、自分がいちばん苦しい時、孤独な時に、最後の頼みとする「心のよりどころ」のようでした。「岩手山」と同じく『春と修羅』所収の「くらかけの雪」では、次のような思いが吐露されます。

  くらかけの雪

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしやぽしやしたり黝んだりして
すこしもあてにならないので
ほんたうにそんな酵母のふうの
朧(おぼ)ろなふぶきですけれども
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかり
  (ひとつの古風な信仰です)

 上記は若い頃の作品ですが、晩年になって「雨ニモマケズ手帳」に書き記された断片では、次のようになっています。

  〔くらかけ山の雪〕

くらかけ山の雪
友一人なく
たゞわがほのかにうちのぞみ
かすかなのぞみを托するものは
麻を着
けらをまとひ
汗にまみれた村人たちや
全くも見知らぬ人の
その人たちに
たまゆらひらめく

 これはおそらく未完に終わっており、小倉豊文氏が指摘しているように、一行目の「くらかけ山の雪」が題名であって、詩の本文は「友一人なく」から始まるのかもしれません。
 しかしいずれにしても、「友一人なく」孤独な賢治が「かすかなのぞみを托する」のは、くらかけ山の雪だったのです。
 このことからも私は、「慈母」と呼ばれた母イチの存在を、連想してしまうのです。


 ちなみに、「春と修羅 第二集」の「国立公園候補地に関する意見」という作品は、岩手山周辺を舞台としていますが、その中に次にような一節がありました。

(前略)
いったいこゝをどういふわけで、
国立公園候補地に
みんなが運動せんですか
いや可能性
それは充分ありますよ
もちろん山をぜんたいです
うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな
鞍掛山もむろんです
ぜんたい鞍掛山はです
Ur-Iwate とも申すべく
大地獄よりまだ前の
大きな火口のヘりですからな
(後略)

 賢治はここで、鞍掛山の方が、現在の姿の岩手山よりも地質学的に古い存在であると考えて、‘Ur-Iwate’という呼称を与えています。‘Ur-’とは「原初・根源」を意味するドイツ語の接頭辞で、「原・岩手山」という感じでしょうか。
 そしてこれは、現代の火山学から見ても、そのとおりらしいのです。「活火山データベース」の「岩手火山地質図・解説」によれば、鞍掛山は「網張火山群」に属し、さらに中川光弘氏の「東北日本,岩手,秋田駒ヶ岳およびその周辺火山群の岩石学」によれば、岩手火山群の形成史は、次の如くだそうです。

  1. 更新世前期の松川安山岩の活動後,更新世前~中期(約1Ma以降)に網張火山群が全域にわたって活動した。
  2. 更新世中~後期に旧岩手火山の活動が開始され,成層火山体が形成された。 この時期に網張火山群も並行して活動した可能性がある。
  3. 旧岩手成層火山体形成後,0.15Mの前後に山体南東部に鬼又カルデラが形成された。
  4. 鬼又カルデラ形成後,玄武岩質溶岩流の活動が行なわれカルデラ内を埋め尽した。この活動は 0.07Ma前後には終了した。
  5. 0.06Ma前後に西岩手カルデラが形成され,カルデラ内で後カルデラの活動が行なわれた。そして,旧岩手火山の活動は遅くとも0.03Maには終了した。
  6. その後2.5万年以上の活動休止期をはさんで,約5000年前に東岩手カルデラが形成され新岩手火山活動が開始された。 これは現在まで続く。

 従来から,岩手火山群では火山活動が西から東へ移動すると指摘されてきた。しかしながら,網張火山群の存在から,活動が移動したのではなく,最も時期まで活動したのが火山群の東端(岩手火山)であるといえる。

 すなわち、鞍掛山を含む網張火山群の活動は、約100万年前の更新世前~中期から始まるのに対して、旧岩手火山の活動開始は更新世中~後期からで、さらに現在の岩手山の山体が形成されるのは、わずか5000年前だというのです。
 賢治の当時にどの程度のことが判明していたのか私にはわかりませんが、鞍掛山を Ur-Iwate としたのは、地質学者・賢治の慧眼だったのかもしれません。

 それから、花巻において、「父方宮澤家」と「母方宮澤家」は、ルーツは同じですから、どちらがより古いということはないのですが、母方祖父(宮澤善治)の家の方が、父方の家よりもはるかに有力な実業家で、花巻銀行、花巻温泉、岩手軽便鉄道などの経営に大きく関わっていました。政次郎氏が質屋の事業を発展させたと言っても母方宮澤家にはとても及ばず、賢治が言う「財ばつ」(書簡421)というのは、主に母方のことを指していたのだろうと思います。
 つまり、岩手山―鞍掛山の地質学的関係と、父方―母方の経済的関係に、何となく類似を感じたりもするのです。

岩手山とくらかけ山
岩手山とくらかけ山