徴兵検査にこだわった理由

 橋川文三著「昭和超国家主義の諸相」(『現代日本思想体系31 超国家主義』所収)の中に、次のような一節がありました。

 父という権威への反抗は(精神分析学の公理にしたがえば)少年期において罪障感をよびおこす最大の原因である。そこで「少年は自分の気持ちをうまく処理できないということに猛烈に気が咎め、無意識のうちに自らを懲罰しようと感じる。」 そうして、たとえば戦争の機会をとらえて進んで軍隊に志願したりする。

 ここで橋川氏は、自己破壊的な側面も帯びたテロリズムに走る、昭和初期の超国家主義者のことを述べようとしているわけですが、私自身どうしても連想してしまったのは、宮澤賢治のことでした。もちろん、賢治はテロリストとは正反対の立場にいたのですが。

 1914年(大正3年)に『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで「異常な感動」を覚えた賢治は、翌年に盛岡高等農林学校に入学し、しばらくは学業に文芸活動に打ち込みつつ、宗教的研鑽に励みました。しかし、1918年(大正7年)にもなると、浄土真宗の篤信家である父親に、公然と法論を挑むようになります。
 「毎日毎日、あんまりひどく争うので、母をはじめみんなで心配しました。ほかの親子も、親子というものは、こんなに争うものかと思ったりしました。」というのが、妹シゲの回想です。1918年2月2日付けの書簡[44]には、賢治自身も「屡々父上等にも相逆らひ誠に情けなく存じ居り候」と書いています。
 これは、「日蓮主義」対「浄土真宗」という宗教対立の形をとったわけですが、もしも仮に賢治が法華経と出会っていなかったとしても、商人の後継ぎを期待する厳格な父親と、そのような枠には収まらない賢治という強烈な個性との間には、遅かれ早かれ衝突は避けられなかったのでしょう。

 そしてまさにこの時期に、「徴兵検査を受けるか否か」という問題をめぐって、また父子は対立を始めたのです。当時すでに第一次世界大戦は終結していましたが、ロシア革命の混乱に乗じて日本もシベリア出兵を準備している時期であり、そうなると東北地方の第八師団などは、大陸へ出征することになる可能性も高かったのです。
 父政次郎氏は賢治の身を案じ、研究生として学校に残ることで徴兵を受ける時期を延ばすことを強く勧めたのに対して、賢治は延期せずに徴兵検査を受け、シベリアに行くなら行く、と主張しました。
 1918年2月23日付け書簡[46]では、「総ては誠に我等と衆生との幸福となる如く吾をも進ませ給へと深く祈り奉り候間何卒色々と御思案下されず如何になるとも知れぬことに御劬労下さらぬ様・・・」あるいは、「戦争とか病気とか学校も家もみな均しき一心の現象に御座候 その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候」と書き、〔3月10日〕付け書簡[48]では、「仮令シベリヤに倒れても瞑すべく・・・」と書き、とにかくどうなるかはわからないが、徴兵を受けさせてくれ、と賢治は執拗に迫ります。
 賢治が、ここまで性急に兵役の義務を果たそうとこだわった理由としては、徴兵を避けることが「放縦なる心」「懈怠の心」を生むと説明したり、一般的な愛国心を述べたりもしていますが、私などが第三者的に読んでいると、どうしてそこまで意地になるのか、もう一つ納得できない感じを受けてしまうのです。

 このようなあまりにも一途な賢治の行動に対して、冒頭に引用した一節は、まさにしっくりとくる説明を与えてくれるように思います。
 尊敬する偉大な父でありながら、やむにやまれず反抗を繰り返す自分自身をどうしようもできず、賢治の心には罪責感が蓄積されていったでしょう(「屡々父上等にも相逆らひ誠に情けなく存じ居り候」)。そして、その罪責感が無意識の自己懲罰の願望を生み、「進んで軍隊に志願したり」したというわけです。

 結局その後、賢治の強引さの方が勝って、1918年4月-5月に徴兵検査を受けますが、「第二乙種」という結果で、兵役には就かなくてすむことになります。
 押野武志氏は『宮沢賢治の美学』の中で、この「徴兵免除」が負い目となって、その後の賢治に影を落としたのではないかと、次のように述べておられます。

 しかし、検査結果は第二乙種、つまり、唯一の兵役免除条項である体格不良のため不合格となる。徴兵猶予を勧める父への手紙に対して、それを振り切って皇軍の兵士となって死ぬことを覚悟していた賢治にとって、この結果は屈辱的であったに違いない。あの賢治の物理的な身体への嫌悪、オブセッションの源のひとつに、こうした徴兵免除の負い目があったと考えるべきである。

 しかし私としては、徴兵検査の結果が負い目になったというよりも、畏れ多くも父親に逆らっているという負い目が先にあって、逆にこれが賢治を徴兵検査に駆り立てた、という風に感じるのです。

 賢治は、後年まで非常に深い「親に対する罪責感」を抱えつづけていたようで、亡くなる前年の1932年(昭和7年)6月22日付け中舘武左衛門あて書簡[422a]には、

 小生の病悩は肉体的には遺伝になき労働をなしたることにもより候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候。諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓を引きたる為との事尤もと存じ候。

と書いていて、何か胸が痛くなります。

 賢治の「罪責感」は、両親に対するものだけでなく、「〔手紙 四〕」などを読むと、妹トシにも抱いていたように感じられますし、さかのぼっていくと、まるで「原罪」の意識とでも言わざるをえないものも、漂っています。

 賢治の作品に数多く見られる「自己犠牲」のテーマの背後には、そのような罪責感の結果としての「自己懲罰」という心性も、想定できるのではないかとさえ思ったりするのです。