1921年(大正10年)4月、家出中の賢治と花巻から出てきた政次郎の父子は、関西旅行を行いました。その第三日の昼すぎに、二人は湖南汽船を坂本港で降りて、ここから歩いて比叡山を越え、夜になって京都の旅館にたどり着きます。賢治24歳、政次郎もまだ47歳とはいえ、かなりの強行軍です。
今日はこの行程を、たどってみることにしました。
上の写真は、JR湖西線の「比叡山坂本」駅です。まずは、ここから琵琶湖岸方面を目ざします。
まっすぐ湖岸に出て、少し南に行ったところ、現在はマリーナ施設になっているあたりに、昔の「坂本港」があったということです(下写真)。
昔の坂本港の写真は、「琵琶湖河川事務所」のサイトに掲載されていました(下写真=国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所提供)。
湖南汽船内で昼食をとった父子は、上の桟橋に降り立って、坂本の街並みを抜け、比叡山を目ざしたわけです。
坂本港から、比叡山の登り口までは約2.4kmです。この間には、日吉大社の参道に沿って、昔この地に住んでいた「穴太衆」と呼ばれる人々による、独特の石積みが見られます(下写真右側)。
この道の突き当たり近くに、比叡山への登り口があります。延暦寺の「表参道」の入口として、両側に常夜燈が置かれた厳かな石段が、その起点です。
賢治たち父子も、ここから比叡山に登り始めたわけですね。延暦寺の根本中堂までは、約3kmということです。
ただ、今日の私はちょっと楽をさせていただいて、登り口からちょっと西にある、右写真の建物を通って行きます。
これは、坂本側から比叡山に登る、「坂本ケーブル」の坂本駅です。坂本ケーブルとは、全長2025mもある日本最長のケーブルカー路線で、もちろん賢治たち父子が登山をした時にはまだ存在しませんでしたが、意外にもその6年後の1927年には、もう開業していました。上の「ケーブル坂本駅」の建物は、その1927年以来のもので、国の登録有形文化財にも登録されているそうです。
駅の内部も、下写真のようにレトロな感じでいい雰囲気です。
ケーブルカーに揺られて11分、終点の「延暦寺駅」に着きました。やはりレトロな駅舎から出ると、琵琶湖が眼下に広がります。
ケーブルの延暦寺駅から歩いて10分足らずで、延暦寺の本堂にあたる「根本中堂」です(下写真)。
根本中堂の脇には、賢治の歌碑があります。麓からは2週間遅れで、今まさに満開の桜が、花を添えてくれていました。
根本中堂
ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ。(775)
下写真は、やはり賢治たち父子が参拝した「大講堂」です。
いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。(777)
写真のように、今日も大講堂には「五色の幡」がはためいていました。
で、次は根本中堂や大講堂のある「東塔」から西の方に30分ほど歩き、「比叡山頂」まで行きました。そしてここから、賢治たち父子にならって、歩いて比叡山を下ることにします。京都方面へ降りるロープウェーの駅近くには、右のような道しるべが出ていました。下山路は約5km、修学院の方に出ます。
山道は、ところどころ険しい箇所もありましたが、おおむねしっかりと踏み固められた道で、歴史も感じさせてくれるような雰囲気でした。その昔、延暦寺の意に沿わぬ事が都であると、僧兵たちが日吉大社の神輿を担いで山を駆け下り、「強訴」を行ったと言われていますが、その際に武装した僧たちが走ったのが、まさにこの道だったわけです。
途中、左写真のような「千種忠顕卿水飲対陣之跡」と書かれた石碑が立っていました。
千種忠顕という人は、鎌倉時代末期から建武中興時代にかけて、後醍醐天皇に仕えていた公家出身の武将で、後醍醐天皇の隠岐脱出を助けたりもしたそうですが、足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かつと、天皇側の軍を率いてこの比叡山において尊氏の弟・足利直義と戦って敗れ、戦死したということです。
偶然のことですが、この石碑が建てられたのは、1921年(大正10年)5月ということで、賢治たち父子がここを通った1ヵ月後のことです。賢治たちも、ひょっとして碑の基礎工事などを目にしたでしょうか。
場所によっては、「神輿を担いだ僧兵たちがどうやって通ったのだろう」と思わせるような狭い切り通しもあったり(右写真)、先日までの雨でドロドロにぬかるんだところもあったりしましたが、午後5時前には、何とか京都市左京区修学院の比叡山登り口(=「雲母坂(きららざか)」)に降り立つことができました。
「雲母坂」というのは、比叡山の京都側の地質に花崗岩が多いことから、その中に含まれる雲母が、このあたりの坂道にキラキラと見られていたことによるそうです。
『【新】校本全集』年譜篇には、賢治たち父子は、「暮れかかる山道を約八キロ、白川の里に降り、・・・」と書かれていますが、京都市の北東部を白川と呼ばれる小川が流れ、「北白川」などの地名があるのも、比叡山の方から花崗岩質の砂が流れてくるので、このあたりの河床が白く見えることに由来しています。
さて、山道は音羽川という流れのほとりに出て、下の橋は、音羽川に架かった「きらら橋」です。
ここから、少し市街地の方へ歩くと、曼殊院(下写真)や詩仙堂など、少しマイナーですが静かな観光名所もあります。
一乗寺のあたりから、比叡山を振り返って見ました。
そして最後は、父子がこの晩泊まった宿、「布袋館」のあった場所です。
「布袋館」のことについては、以前に「京都における賢治の宿(1)」に、少し詳しく書きました。
それにしても、比叡登山にケーブルカーを使うという大きな楽をさせてもらったにもかかわらず、帰ってくると結構疲れましたよ。
塩見
懐かしい風景に感動しました。水飲対陣、雲母坂は何年ぶり…(遠い目)。30年近く前、中学校時代の比叡山往復マラソン以来の出合いです。ありがとうございます。
hamagakiさん、雲母坂下り、お疲れさまでした。今はどうなっているのか分かりませんが、急坂で、道が険しいので、初めての人には大変だと思います。雨が降った日なんかは、山道が川になるので凄いです。
小学校時代に、父と妹と共に時々、一乗寺から坂本に遠足に出掛けましたが、雲母坂は険しいので使いませんでした。もっぱら曼殊院の南側の道か、葉山馬頭観音の道を利用して、無動寺谷に抜ける方法です。ほかにも古道があります。http://www.geocities.jp/hieisankei/stage04_01.html
賢治先生とお父さんは、通説のように雲母坂に降りたのでしょうか。雲母坂は有名でしょうが、東塔、西塔から無動寺谷に降りて、瓜生山の裏を通って、北白川の方に降りる道の方がなだらかですし…。でも距離が合わないのか。
http://raku.city.kyoto.jp/data/cssys/bulletin/chirashi.pdf#search='御陰通'
↑こういうコースもあるようです。
地元の意識では、修学院、一乗寺の地域は今でこそ白川通りがあるので、北白川のイメージがありますが、北白川は町名の通り、御陰通り以南の地域です。私の子供の頃、白川通りは十二間道路と呼んでいて、工事中でした。市バスは上終町が終点、曼殊院通りではバスが高野川の方から来て、下り松が終点だったと聞いております。
hamagaki
塩見様、いつもながら貴重なご教示をありがとうございます。
比叡山から京都に降りる道としては、なにぶん「雲母坂」が有名なもので、私としては大して深く考えることもなく、賢治たち父子も雲母坂を降りてきたのだろうと思いこんでいました。しかしご指摘のとおり、無動寺谷から降りるというルートも十分に考えられますね。
距離は、『【新】校本全集』の年譜篇には、「夕方になり暮れかかる山路を約八キロ、白川の里に降り、」と書かれていますが、雲母坂を通った場合、四明嶽から6km(東塔からは7.5km)、無動寺谷から北白川に降りる場合は、7km(東塔からは8km)程度でしょうか。したがって、道のりとしては無動寺谷ルートも、「年譜」の記載と矛盾しません。それに、北白川に降りる方が、たしかに「白川の里に降り、・・・」という記述と一致しますね。
こんどまた、気力が回復したら(笑)、こちらの道も歩いてみたいと思います。
もう一つご紹介いただいたルートも、実は今回下山している途中で、「水飲対陣之跡」の碑の地点に、「修学院へ→」「赤山禅院へ→」「北白川へ→」という分岐の標識が出ていて、「ここから北白川へも降りられるのか」と、ちょっと悩んだ道でした。
思い返すと、私もかなり以前に、無動寺に行ってみたことがありました。塩見さんもご存じと思いますが、一乗寺にあるこの古い道標に興味を引かれたのです。
無動寺そのものは、「千日回峰」など山林修行の拠点としての意味が重要なのでしょうが、庶民にとっては、その隣の「弁財天」の方が金運の信仰の対象となり、江戸時代からこの谷に至る参道が発達していた理由を、実感させてくれました。
雲
お疲れさまでした。
お写真がきれいで、楽しませてもらいました。
五色は、まるで、虹のようですね。
『めくらぶどうと虹』に、つながったりするのでしょうか。
雲母という名は覚えているのですが、地学の時間に、覚えられなかったことまで、思い出します。
くらもちふさこさんのマンガに、”きら”という女の子が出てくる作品があったのですが、タイトルを忘れました。