膳所駅~膳所港~石場浜~紺屋関

 先日、「「石場浜乗船」のこと」でも触れましたが、1913年(大正2年)6月から1921年(大正10年)7月の間の7年間だけ、東海道線の「大津駅」とは、現在の「膳所駅」のことでした(Wikipedia「大津駅」参照)。

 ということで、下の写真が、今日のお昼頃の「JR膳所駅」です。

JR膳所駅

 現在、JR東海道本線で「膳所」は「大津」の一つ東の駅ですが、「大津」の周辺は官庁やオフィス街という雰囲気なのに対して、この「膳所」のあたりは、若い人も多いショッピング街です。

 1921年(大正10年)4月、賢治と政次郎の父子は当時の「大津駅」、すなわちこの駅に降り立ち、「石場浜」から湖南汽船に乗船したとされています。先日の記事では、石場港が当時の湖南航路の停泊港ではなかった可能性について触れ、もしも賢治父子が石場港から乗ったのでなければ、「膳所港」か「紺屋関港」が考えられると述べました。
 今日の午後、私は膳所駅で降りて、上記のあたりの琵琶湖岸を歩いてみました。

 途中、膳所駅から琵琶湖岸に出たあたりにある「におの浜観光桟橋」では、観光遊覧船「ミシガン」が、ちょうど出航するところでした。

におの浜観光桟橋の「ミシガン」

 この「ミシガン」を運航する「琵琶湖汽船株式会社」は、賢治の当時の「湖南汽船会社」の後身であり、「ミシガン・クルーズ」は琵琶湖の南部を周遊するものですから、賢治父子が乗船した湖南汽船の「湖南航路」の、現代版みたいなものとも言えます。

 そしてここから、20分ほど南東の方向に歩くと、「膳所港」に着きました。

膳所港

 現在の膳所港は漁港になっており、「ビワバス」釣りの拠点の一つのようです。左端に見える橋は「近江大橋」で、対岸の草津市との間をつないでいます。

 この後、琵琶湖岸をまた歩いて西の方に戻っていきました。2kmあまり行くと、「琵琶湖ホール」の西側が、「石場浜」です。
 ここは今は公園になっていますが、その一角には、江戸時代から石場⇔矢橋(やばせ)間を往復する「矢橋の渡し」の目印となっていた、石造りの見事な「常夜燈」が残されています(下写真)。湖岸は、現在は港としては使われていません。

石場常夜燈

 上の写真で右端の方の山が、賢治父子がこの日の午後に歩いて越える、比叡山ですね。

 石場浜からさらに500mほど西に歩くと、当時の「紺屋関港」のあった場所です。ここは当時、湖南汽船会社のメイン・ポート=「大津港」でもありました。現在は、滋賀県警水上警察や消防など、公的な船が停泊しています。

旧紺屋関港

 賢治たち父子は、膳所港、石場浜、紺屋関港のいずれかの港から、湖南汽船に乗船したのだろうと思いますが、当時の航路については、何か資料があればもう少し調べてみたいところです。


 この後、大津駅へ帰る途中に少し寄り道をして、「旧逢坂山トンネル」の跡を見てみました。東海道線および大津駅が現在の位置になるのは、賢治父子の旅行直後の1921年(大正10年)8月1日からで、それまでの東海道線は、下写真の古いトンネルを抜けて、京都の南の方に出ていました。

旧逢坂山トンネル跡

 この旅行の時の賢治父子は、大津駅で降りて比叡山を越えて京都へ行き、大阪~奈良から関西線を経由して東京へ帰ったようですから、上のトンネルは通っていません。
 賢治が1916年(大正5年)の、盛岡高等農林学校修学旅行において京都に来た時には、3月23日早朝に、ここを抜けたはずです。