追悼・力丸光雄先生

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 宮沢賢治学会イーハトーブセンターの元代表理事でもあった力丸光雄氏が、先月に突然亡くなられてから、もう1ヵ月が経ちました。
 私自身は、残念ながら氏の謦咳に接する機会は持てなかったのですが、以前から発表されていた賢治に関する多数の論文や随想によって、力丸氏のお考えには何となくずっと親しんでいたような気持ちになっていました。
 直接お会いしたこともないのに、勝手に印象を決めつけるのも失礼な話ですが、力丸氏に関する私のイメージをあえて言わせていただくと、真摯な化学研究者の側面と、教育者の側面と、あともう一つは表現するのが難しいのですが、人間の最奥にある不可視な世界?にも繋がろうとする側面・・・などが、一体となった不思議な人・・・というような感じです。と書くと、私の思い込みかもしれませんが、どこか賢治にも通ずるところがありますね。

 まず力丸氏は、天然物有機化学を専門とする科学者で、岩手医科大学教授を務められた一方、宮澤賢治研究家としてイーハトーブセンター設立発起人の一人でもあり、前述のように代表理事も務められました。
 また、力丸氏はその一方で、文化人類学的な観点から「仮面」というものに強く関心を持たれ、数十年にわたって日本や世界の仮面を収集してこられた「仮面研究家」でもあり、「日本仮面研究会」の会長もされました。1998年に岩手医科大学を定年で退かれてからは、「北上市立鬼の館」の館長に就任して、その厖大な「仮面」コレクションを、館に寄贈しておられたということです。
 私は3年前に、「鬼剣舞」のお囃子のことを調べたくて、この「鬼の館」に行ってみたことがありました。館内のホールで、何気なく剣舞のビデオが流れていると、親子連れで休日を過ごしに来たというような小さな子供が、音楽に合わせて上手に舞を踊っているのが印象的でした。「さすが鬼剣舞の里!」と思ったものです。

北上市立鬼の館

 今回、その「北上市立鬼の館」において、特別収蔵資料展「力丸館長追悼展」が、2月24日から4月6日まで開かれているということです。


 一方、力丸氏の文章で私の心に残っているものとしては、『宮沢賢治6』(洋々社)の巻頭に掲載されていた、「χへの手紙」・・・「いささか賢治の世界に深入りしすぎ、「専門」の立場からという姿勢がいつかくずれてしまったようです。最近は、インド哲学やC.G.ユングを勉強しながら賢治を読んでいるわけですが、今さらのように己れの無力を感じます。」・・・という立場からの、賢治をめぐる随想がありました。
 あるいは、天沢退二郎編『宮沢賢治ハンドブック』(新書館)における、「岩手公園」や「盛岡」という項目に関する、情緒あふれる叙述も、魅力的でした。盛岡で長く生活され、街を深く愛しながら、それでも常に旅人のように客観的な眼でこの街を眺めておられたのかと思わせます。

 Web 上で見られる力丸氏に関するページとしては、2005年の岩手公園碑前祭に関する盛岡タイムスの記事が、力丸氏による「碑前随想」も入っていて、興味深いです。

 あと、帽子関連のニュースを集めた下記のページの下の方(岩手日報2000年7月24日ニュースより)の記事も、面白いですね。

 下記の文章は、力丸氏が「風土工学デザイン研究所」というところのシンポジウムで発言されたことの要旨のようで、賢治とは直接関係ないですが、「東北」や「鬼」に関する力丸氏の考えの本質に触れられるような感じです。


 締めくくりに、力丸光雄氏が宮澤賢治に関して書かれたほぼ最後に近い文章の一つと思われるのが、東北電力の広報誌「白い国の詩」(2008冬号)に収録されている、「もう一つの宮沢賢治論 賢治のサイエンス・コズモス」です。その Web 版は、下記から読むことができます。

 力丸氏自身も科学者でありながら、賢治が既存の科学を超えた次元の<科学>を求めたところに、力丸氏も共感しておられるように感じます。そしてそれこそが、力丸氏をして普通の科学者や大学教授におさまらない、広汎な活動をさせたものだったのでしょう。
 なお、この文章は全部で3ページありますが、2ページめの左側に掲載されている「五輪塔」や「五輪峠からの眺め」の写真は、実は私が提供させていただいたものだったのです(「五輪峠」詩碑参照)。
 たしか去年の終わり頃に、広報誌の編集者の方から写真使用の依頼があり、「力丸先生の文章を飾れるなら!」と喜んで元の写真をお送りしたのですが、それから数ヵ月で、こういう形でブログに書きこむことになるとは、思いもよりませんでした。

 謹んで、力丸光雄様のご冥福をお祈りします。