先日、「「聚楽の二階」の賢治と光太郎(2)」を書いた後に、入沢康夫氏の「賢治の光太郎訪問」(『賢治研究』80号, 1999)を、遅ればせながら読むことができました。本来ならばこれは、この問題について何か書こうとするなら真っ先に読んでおかねばならない基本文献だったはずですが、その内容も知らずに考察のまねごとをするなど、私の無茶もいいところでした。
で、その入沢氏の「賢治の光太郎訪問」によれば、『〔旧〕校本全集』年譜に引用されていた手塚証言……賢治と光太郎と手塚武が、光太郎宅で会った後、上野まで歩いて「いっぱいやりながら鍋をつついた」という話……は、「校本全集編纂刊行が進行している最中に、手塚氏から天沢退二郎氏へ、そして堀尾氏へという経路で、書信によってもたらされたもの」で、「堀尾氏が、それまでの「玄関先での立ち話」説とはあまりに違う証言内容に驚き、手塚氏によくよく念を押したところ、手塚氏から「この記憶に絶対間違いはない」との確言があり、年譜に採用されることになった」という由来のものだったそうです。
しかし、その手塚氏自身がはるか以前に「宮澤賢治君の霊に」と題した追悼文の中で、「僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけが逢つた。後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき・・・」と書いていることをあらためて再発見し報告したのが、入沢氏のこの「賢治の光太郎訪問」でした。入沢氏はこの論考の最後を、
このことに気付いてからの私の気持は、「後年の手塚武の記憶には、誰か別な人との会食の記憶が(賢治について後日得た知識も加わって)混入したのではないか」とするほうに強く傾いている。関係者がひとりも生存しない今、決定的な答は出ないのかもしれないけれども。
と結んでおられます。
すなわち、「別人混同説」を、はっきりと一つの可能性として打ち出したのは、この入沢論文が嚆矢であったようで、その priority は、ここで再確認しておきたいと思います。私の記事は、そんなことも知らずに書いた不躾なものでしたが、意図せずその説の末席を汚していたわけです。
あともう一つ、それより以前に書いていた「公衆食堂(須田町)」という作品の舞台をめぐっては、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「緑いろの通信」3月3日号でふたたび取りあげていただいています。その考察において加倉井さんは、作品舞台の有力な可能性として、「昌平橋簡易食堂」を挙げて下さいました。たしかに、「須田町」からの距離としては非常に近い場所に位置しており、気になるところです。
ここで、記事へのコメントでいただいた説も含め、もう一度、候補地を整理してみます。
公衆食堂◯
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公衆食堂X
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須
田 町 ◯ |
(存在しない)
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神田青物市場内の民間食堂
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須
田 町 X |
上野公衆食堂 神田橋公衆食堂 |
昌平橋簡易食堂
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上記で、「神田青物市場」というのは、関東大震災の頃まで、神田須田町一丁目、神田多町二丁目付近一帯に発展していた東京最大の青果市場で、町の中に市場があるというよりも、「市場の中に町がある」という状況だったそうです。現在も、須田町1丁目10番地には「神田青果市場発祥之地」という石碑が立っているそうです。
そのような神田市場の中には、市場に集うたくさんの人々を当て込んだ安い食堂がいくつもあったということを、塩見さんがコメントでお知らせ下さいました。これはまさに、「須田町の食堂」ということになります。
下段左の「上野公衆食堂」は、当時の賢治の生活から、最も訪れた可能性が高いと私が推測した公衆食堂、「神田橋公衆食堂」は、1921年の時点で最も須田町に近かったと考えられる公衆食堂です(直線距離700m)。
今回、加倉井さんが推挙していただいたのが下段右の「昌平橋簡易食堂」で、何と言ってもこの店は、旧須田町交差点まで直線距離ならば220mほどという、「須田町への近さ」が注目点です。中村舜二著『大東京綜覧』(1925)でもわざわざ一項を立てて紹介されていますが、これは、中村舜二氏自身が東京市議時代に、この店の開設に関与したことにもよるでしょう。
私としては、題名の「公衆食堂」という言葉を文字通り受けとるか、現在の「大衆食堂」に相当するような一般的意味で用いたと考えるか(当時そのような用法があったかはわかりませんが)、というところが一つの分かれ目かと思うのですが、いずれの店とも決めがたい状況です。
加倉井さんがおっしゃるように、「結局のところ諸説さまざまです。」
昭和4年頃の須田町界隈。左上の方に「堂食町田須」の看板が見える。
(『聚楽50年のあゆみ』より)
かぐら川
先日来のいつもながらの真摯な論考、拾い読みは厳禁!、時間のあるときにプリントアウトして読もう。・・・と思いながら今日に到っています。そんな中、賢治とはまったく関係はないのですが、須田町についてエッセイ風にかかれた雰囲気のある文章を偶然読んで、そのことだけでも余談として書き込ませていただこうと思っていたのですが、いざ今書こうと思ったら、それが誰のどんな本だったのか思い出せず、手当たり次第に手元の本を探してもそれらしい本がないのです。とても残念。浜垣さんの考察に触発されて、夢でもみたのでしょうか。
夢で思い出しましたが、「高村光太郎と智恵子の世界」展で駒込林町25番地の光太郎のアトリエの大きく引き伸ばされた写真〔光太郎の甥・規さん〔光太郎の弟・豊周のご子息〕の語りかけてくるような写真〕を初めて見たとき、私はその戸口に立っている賢治の姿をたしかに見たのです。幻視と言われれば幻視なのですが。
(以上、まったく意味のない落書きです。)
hamagaki
かぐら川 様、こんにちは。いつもありがとうございます。
拙ブログをプリントアウトするなど、紙資源の浪費から地球環境破壊や人類絶滅にもつながるのではないかと危惧してしまいますが、長すぎる文章をあたたかく許してくださっている寛容に、感謝申し上げます。
「須田町」に関するエッセイ、気になりますね。「夢だったかもしれない」とおっしゃられると、なおさらその内容が惜しまれます(笑)。
高村光太郎のアトリエ玄関に幻視された賢治の姿、これにも何とも言えないリアリティを感じてしまいます。
そうか、手塚武氏も、賢治と光太郎と一緒に「いっぱいやりながら鍋をつついている」幻覚を体験したのかもしれませんね。
雲
光太郎と賢治が知り合いだったというのは、どこかで、読みました。
しかし、印象が強くて、何度も会っているわけでも、ないのですね。
そんなところが、賢治の不思議さだなと、思います。
当たってますか?
林町という町があって、2人が出会うなんて、面白いです。
拾い読みばかりで、ごめんなさい。