「聚楽の二階」の賢治と光太郎(1)

 先日来、「公衆食堂(須田町)」について記事を書いていた時期に、「賢治の事務所」の加倉井さんが、賢治と高村光太郎が生涯に一度だけ面会して、「鍋をつついた」とされる店の存在について、疑問を提起しておられました(2月16日付の「緑いろの通信」参照)。
 1926年12月に、賢治と光太郎と詩人の手塚武が3人で、上野駅近くの「聚楽の二階」で食事をしたという記載が旧『校本全集』にはあったのですが、この「聚楽」というのは、実は先日から話題にしていた「須田町食堂」の、系列店にあたるのです。

 まず、『【新】校本全集』の年譜篇における、この問題に関わる「注」を、下記に引用します(読みやすくするため、途中に改行を入れました)。

 *71 校本全集年譜では
 「一二月一八日(土)または二〇日(月) 本郷区駒込千駄木林町一五五番地に高村光太郎を訪う。先客に「銅鑼」の同人手塚武がいた。手塚は第八号に「新しい盗人」というエッセイを発表しているので、賢治も名前は知っていた。手塚の記憶によると、高村光太郎はふだんとちっとも変わらぬ態度で、賢治にいつごろ出てきたか、何を勉強しているか、岩手ではどのような生活をしているかを問い、賢治はエスペラントを習っている、音楽の勉強もしたいといったり、何か弟さんに気がねをしているような言葉の節があったという。
 夕方になり、一緒にめしを喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は林町の家を出て坂を下り、池の端から上野駅近くまで歩き、当時はまだ小さかった聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた。一時間半ぐらい話しあったという、賢治はマント、高村光太郎はインバネスであったか、と手塚は言う。(後略)」
と記述していた。この記述内容は、校本全集年譜編纂時に堀尾青史のもとに手塚からもたらされたという。ただし、具体的根拠が再確認できない。
 手塚自身『宮沢賢治追悼』(昭和九年一月二八日、次郎社)に収録された「宮沢賢治君の霊に」の中で、「僕の東京住まい中、たつた一度出て来た宮沢君と、余りに突然だつたので、僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけは逢つた。」と記している。

 つまり手塚武氏は、昭和9年には、「自分は賢治には会えなかった」という意味のことを書き、その後校本全集編纂時には、上記のようにかなり具体的な面会の記述を、堀尾青史氏に提供しているわけです。
 堀尾氏にもたらされたという情報には、実際に面会したとしか思えないような具体的で臨場感あふれる描写があるのに、この矛盾は本当に不思議です。

 この「謎」に関連して、上記のページで加倉井さんは、次のように指摘しておられます。

 須田町食堂の創始者加藤清二郎が株式会社「聚楽」を設立したのが、1934(昭和9)年のことです。とすれば、上記の出来事があったとされる1926(昭和2)年12月には「聚楽」が存在していなかったことになります。
 また、「当時はまだ小さかった」というのも少々疑問で、須田町食堂の流れにある聚楽の店舗(現ヨドバシカメラ近く)の方は小さなものでした。この店は数年前に撤退してしまい、現在はガード下に2店舗(ファミリーレストランと居酒屋)が営業されています。上野公園の下にある「聚楽台」は大型の店舗ですが1959(昭和34)年の開店です。
 この面会は実際にあったのでしょうか。


 歴史学などにおける「史料批判」の原則から言えば、史料Aと史料Bの間に矛盾があって、いずれかの正誤を判断するための第三の史料も存在しない場合、事件から時間的・空間的に近い史料の方が、また間接情報よりも直接情報の方が、信頼性が高いと見なすのが一般的です。その観点からは、校本全集編纂の1970年代よりも昭和9年の言説の方が、また堀尾青史氏を介した話よりも手塚氏が直接執筆した文章の方が、信頼性が高いと期待されることになります。
 とりあえずこの原則に従って、手塚武氏が『宮沢賢治追悼』に執筆した内容の方を採用すれば、「手塚氏と賢治は面会しなかったが、高村光太郎と賢治は、東京において面会した」と、推測してみることができます。実際、『【新】校本全集』年譜篇も、この12月に賢治と光太郎の二人は会ったと〔推定〕しています。

 ただここで、上記で信頼性が劣ると判断した「校本全集編纂時に手塚氏から堀尾氏にもたらされた情報」に関しても、その中に一片の真実も含まれていないなどと断定することはできません。長い年月がたつうちに、手塚氏の記憶に錯誤が生じたとしても、その中の一部には、事実が含まれている可能性があります。
 例えば、「エスペラントを習っている、音楽の勉強もしたい」という賢治が語ったとされる言葉は、実際に他の伝記的資料と対照しても、まさに賢治の1926年の上京時の行動にぴたりと一致していますが、手塚氏は当時のこのような賢治の活動内容を、いったいどうやって知ったのでしょうか。
 手塚氏が、それまでに賢治の伝記などを読んでいて、賢治の東京における行動についてある程度知識を持っていた可能性は、十分にあります。しかしそれでも、賢治の上京は全部で9回もありますから、その中で、唯一自分が面会できた可能性のあった1926年上京時の活動内容だけを、無意識のうちに伝記から適確に抽出して記憶の錯誤の中に潜り込ませていたというのは、ちょっと考えにくいことです。

 そこで考えられる一つの推測として、高村光太郎が、賢治との面会時の様子や話した内容を、後から手塚氏に話していたのではないか、ということが想定されます。
 高村光太郎と手塚武氏の関係は、手塚氏の創刊した詩誌に光太郎が作品を載せるほどの間柄で、同じ東京に在住していたわけですから、会う機会は十分にあったはずですし、もしも賢治と光太郎の面会後に手塚氏が光太郎に会えば、その面会時のことが話題に上るのも、自然なことです。(ちなみに、賢治は『銅鑼』に計11作品もの詩を掲載していますが、「面会」直前の1926年12月1日発行の「九号」は、編集者・草野心平、発行者・手塚武となっていて、賢治はこの号に「永訣の朝」を載せています。)

 ですから、「エスペラントを習っている、音楽の勉強もしたい」という賢治の「言葉」は、賢治が実際に1926年に光太郎に語り、それを後で手塚氏が光太郎から聴いて、手塚氏の記憶の底に沈んでいた内容だったのではないかというのが、私としては最も自然な仮説に思えるのです。


 そこでさらにもう一歩進めて、「上野駅近く」の「聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた」という陳述に関しては、どうでしょうか。
 これも、賢治と光太郎の二人が実際に食事に行ったエピソードととして、光太郎が手塚氏に語ったことなのでしょうか。それともこの部分は、例えば手塚氏が、光太郎ともう一人は賢治ではない誰か別の人と一緒に、「聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた」際の記憶が、誤って紛れ込んでいるのでしょうか。

 これについては、何ともわからないとしか言いようがありません。正直言うと、この部分に関しては、後者の可能性が結構あるのではないかと、私も思います。1926年の時点では、「聚楽」という店はまだ存在していなかったのではないかという、加倉井さんによる上記の指摘もあります。
 ただ、私としては、宮澤賢治と高村光太郎の二人が、「いっぱいやりながら鍋をつついている」情景が、何とも理屈抜きに魅力的に思えてしまうのです。そこで、ひょっとしてこのようなことが実際にありえた可能性は本当にないのか、どうしても考えてみたくなったのです。

 というわけで、私は今日、『聚楽50年のあゆみ』(1974)という本を閲覧しに、龍谷大学の図書館まで行ってきました。
 すでに長くなってしまいましたので、その結果については、次回またご報告したいと思います。

<じゅらく>のおい立ち
『聚楽50年のあゆみ』より