作品「公衆食堂(須田町)」の題名になっている「公衆食堂」という言葉は、現在は使われていません。よく似た言葉で、今も使われる「大衆食堂」という呼称があって、これらはだいたい同じような意味なのかと当初私は思っていたのですが、調べてみると、これが実は違っているようなのです。
遠藤哲夫ほか著『大衆食堂の研究』(三一書房)という本によれば、「大衆食堂」という言葉が一般に使われるようになったのは、昭和初期以降と推定されています。当時からこの「大衆食堂」という言葉が意味していたのは、民間の経営で比較的低廉な食事を供する食堂のことで、現在使われているのと同義です。
これに対して「公衆食堂」とは、1918年(大正7年)に全国的に発生した「米騒動」を受け、東京市が1919年(大正9年)に神楽坂に開設した市営の食堂を第一号として、その後東京の各地に設置された、庶民のための公営の食堂のことなのです。最盛期には16ヵ所ほどになったそうですが、あくまでこれは「官」が実施する救貧的な公益事業であり、民間の食堂のように営利を目的とするものではありませんでした。(そう言えば「公衆便所」とか「公衆電話」も、「官」が「民」のために設置したものだったことを、思い出します。)
東京都民生局が1949年(昭和24年)にまとめた「外食券食堂事業の調査」というガリ版刷りの報告書があって、その中の「公益食堂の意義および歴史的役割」という項に、下のような記述があります。なお、ここでは民間設立のものを含めて、「公益食堂」という呼称が用いられていますが、大正時代から昭和初期における一般的呼称は、前述のように「公衆食堂」でした。
公益食堂は庶民の食生活難を排除し、社会不安を緩和するところにその意義を見出す事が出来るのであつて、即ち本都に於ける公益食堂設立の嚆矢は、大正六年一月に社会政策事業団によつて芝区新幸町に設立された平民食堂であるが、当時既に物価は暴騰の一途をたどり、殊に著しい米価の騰貴(註、大正六年一月の16円37銭が年末には23円86銭、七年末には40円59銭)のため庶民生活は極度に困窮し、その設立は誠に時宜を得たものであつたが、遂に大正七年八月富山県滑川町の漁夫の主婦50人による米価廉売懇願運動を契機として、全国的に米騒動が惹起して、政府は急遽その対策として米廉売所、公益市場、公益食堂等の施設の設置に努力し、かくて公益食堂は米騒動を直接の動機として国家的背景のもとに全国都市に続々発生した。
しかし東京府、東京市直接の設立はこれに遅れ、大正九年四月に牛込区神楽坂に市の施設として、この種の食堂を開始したのが最初であり、引続き同年中に上野食堂が開設され、この設立目的として一般公衆に対し低廉にして栄養に富む食事を供給することを表示したので、当時非常に好評を博し利用者は多く、その成績は極めて良好であつた。次いで大正十年度に入ると三菱合資会社より25万円の寄附があつたので市内五ヶ所に食堂増設の計画を樹て、日本橋、神田橋、本所の各食堂は次々と事業を開始し、三味線堀食堂も又建築落成し事業開始準備中のところ偶々大正十二年九月の大震火災に遭遇して、神楽坂食堂を除いて全部消失したのであるが、この災害によつて市民生活は徹底的な被害を被り、ここに益々食堂の必要が叫ばれるに至り、取敢えず府は東京府社会事業協会に委託して、日暮里、寺島、大島の臨時宿泊所に簡易食堂を併設せしめ、市も又震災善後会の寄附金15万円で市内に10ヶ所の仮設食堂を設けた。しかしその後震災地の復興と共に区劃整理その他の関係から仮設食堂は漸次閉鎖され、大正十五年末には九段、両国、上野、神楽坂の4ヶ所のみが残されたのであるが一方では内務省交附金25万円を得て5ヶ所の増設計画が持たれ、この結果として眞砂町、猿江、大塚、丸の内が事業を開始した。又これとは別に、首都復興事業として50万円の予算で大正十三年度より五ヶ年計画により、三味線堀、神田、柳島、九段、相生町(緑町)、上野、新宿茅場町、田町、深川、の計10ヶ所が開設された。これら食堂を設立順に示すと第1表の通りである。
これは、第二次大戦後になってからの歴史的な回顧ではありますが、米騒動や関東大震災に影響されながら、東京の「公衆食堂」ができていく過程が整理して記述されているので、あえて長文を引用しました。
次に、同時代における記録として、東京市社会局が1925年(大正14年)に刊行した、「東京市設社会事業一覧」という文書を見てみます。
右が、その「事業要覧」という項目の中の「公衆食堂」の部分で、大正14年4月1日現在の状況ということです。先に引用した「外食券食堂事業の調査」で述べられた歴史的流れに位置づけると、これは関東大震災後に10ヶ所の「仮設公衆食堂」が設けられた後、徐々にその整理が進んでいた時期に当たりますね。
この時点で、正式の「公衆食堂」としては、震災を生き延びた「神楽坂公衆食堂」があり、あとは、神田、日本橋、両国、本所、三味線堀、深川、丸ノ内、九段、上野の9ヵ所に、「假設公衆食堂」があります。
最下段に、各店共通の至ってシンプルなメニューとその値段が示されていて興味深いですが、「定食」が朝は10銭、昼と夜は15銭、「うどん」が種物は15銭、普通が10銭、「牛乳1合」が7銭、「パン(ジャムバタ付半斤)」が8銭、コーヒーが5銭、となっています。
1921年(大正10年)、賢治が家出上京中に母イチあてに出した手紙(書簡193)に、「食事も十二三銭出せば、実に立派なものです」との記述がありますが、だいたいそのレベルに相当する価格です。
別のページに掲載されているこれらの食堂の利用者数を見ると、最も繁盛していたのは「丸ノ内假設公衆食堂」で、大正13年4月から大正14年3月における一日平均の朝定食の販売数が1048食、昼定食は1442食、夜定食が1146食で、これはまさに驚くべき数字です。いったいどれほど大規模な食堂だったのだろうと思いますが、上に掲げた「外食券食堂事業の調査」の「第1表」を見ると、丸ノ内食堂の座席数は202で、お昼には7回転以上していたことになります。これが「平均」の数値というのがすごいですね。
公衆食堂の利用者数ランキングは、これに次いで、「神楽坂公衆食堂」、「上野假設公衆食堂」という順になっていますが、これらの店でも、やはり一日平均一食あたり数百食から千食以上が出ています。
あともう一つ同時代的な記録として、東京市会議員の中村舜二という人が1925年(大正14年)に刊行した、『大東京綜覧』という本の、「公衆食堂と其利用者」という項の一部を引用しておきます。
學生勞働者は云ふに及ばず、所謂洋服細民や獨身生活者、その他一般庶民階級に非常に歓迎せられて居るのが、近時の所謂公衆食堂である。
歐米諸國では、簡易軽便本位の公衆的食堂は、公共的にも營利的にも夙に發達して居るが、日本では未だ創設時代とも云ふべき新しき試みの一つである。大正六七年の交と記憶するが、彼の社會事業家の加治時次郎氏が、一食拾銭の平民食堂を新橋に開設したのが、聊もこの事業の皮切りである。その後神田慈善協會の経營に係る昌平橋簡易食堂が同じく一食拾銭を標榜し、純乎たる非營利の社会事業として、大正九年十一月から開業し、大に人氣を集めたのに刺激され、東京市の社會局が大正十年五月に、先づ下谷區坂本町に開設したのを手始めに、段々と數を増して最近に至つて居る。
この文章に続いて、「東京市設公衆食堂入場者数並發賣金額表」というものも掲載されていて、それによれば「大正13年中」の11ヵ所の公衆食堂の延べ入場者の合計は、何と1186万0774人となっています。当時の東京市の人口は約220万人でしたから、この数字の大きさがおわかりいただけるでしょう。また、一人一食平均の単価は、12銭ということでした。
なお、上の文章では、市営の公衆食堂としては、「東京市の社會局が大正十年五月に、先づ下谷區坂本町に開設したのを手始めに」と書かれていますが、これは最初に掲げた「外食券食堂事業の調査」によれば二番目に開設された、「上野食堂」のことではないかと思われます。
いずれにしても、これらの資料からわかるのは、市営の「公衆食堂」という存在が、いかに大正時代後半の東京市民、とりわけ「一般庶民階級」に、爆発的に浸透したかということです。
大正10年、12年、15年、昭和3年に上京している賢治のことですから、そのような東京の状況は当然よく知っていたはずで、作品題名に「公衆食堂」とあれば、この東京市営食堂のことを指していたと考えるのが、最も自然です。
しかしここで、その題名には、「公衆食堂(須田町)」とあるのが問題です。今回挙げたどの文書を見ても、「公衆食堂」が須田町に存在した、という記録はないのです・・・。
[ つづく ]
nenemu8921
hamagaki様、こんにちわ。
いつも貴重な情報をありがとうございます。
ぜひ、秋葉原の須田町食堂へ行ってみたいです(*^_^*)
須田町プレートを味見したいです。
食堂という言葉は世代によって受け止め方は異なるのでしょうね。
昭和17年生まれの私の兄は、郷里のレストラン=食堂です。
海外で生活もした人ですが、ロンドンや東京でのレストランはレストラン、でも、郷里に帰ると、今でもレストランのことを食堂と呼ぶので笑ってしまいます。
賢治の公衆食堂は、時代の背景と賢治流ネーミング癖を勘案する必要がありそうですね。
叉過日、ご紹介にありました「温泉文学論」もたいそう興味深く読みました。
hamagaki
nenemu 様、こんばんは。いつも美しいブログを拝見させていただいております。
秋葉原の「須田町食堂」、なかなか雰囲気はよかったですよ。近くへ行かれる機会があれば、いちど試されてみられたらいかがでしょうか。
「公衆食堂(須田町)」という作品名については、そうですね。(2)の記事を書いてみて、あらためて、賢治がどういう経緯でこのタイトルを付けたのか、解釈が難しいとまたまた感じています。