山しなのたけのこばた

 昔から京都産の筍はブランド品として有名ですが、その中でも「山科の筍」というと、最も珍重されてきたものの一つです。京都に住んでいた作家、故高橋和巳氏のエッセイに「山科のタケノコ」(1969)というのがあって、「京都の季節の味といえば、タケノコですね。京都周辺、ことに山崎、山科のタケノコを、関西風の薄味の醤油で味つけをして、こんぶ、鰹節をそえて食べるのがいい。」と書かれています。また、「山科の筍」で検索してみても、いろいろなグルメページがヒットします。

 宮澤賢治が1916年3月、盛岡高等農林学校の修学旅行で京都・奈良方面を訪れた時の短歌の一つに、

257 山しなの
    たけのこばたのうすれ日に
    そらわらひする
    商人のむれ

というのがあります。
 一方、『【新】校本全集』第十六巻の「年譜篇」で、1916年3月23日の項には、次のように記されています。

三月二三日(木) 曇。午前四時九分京都駅着。東西本願寺を訪れ、桂橋際の万甚楼に六時到着。九時府立農林学校、農事試験場を見学。ついで竹林の筍栽培を見、のち嵐山、金閣寺を見物。帰途衣笠村役場に寄り村長より農業状態をきき、北野神社に詣り、三条の旅館西富家に宿泊。(強調は引用者)

 したがって、これまで私は何となく、賢治たちはこの3月23日の農事試験場見学の後、山科まで行って筍栽培を見学し、上記の短歌はその折の体験を詠んだもの、と思っていました。
 山科における筍の産地としては、山科区西部の「西野山」あたりがその中心で、最近たまたま「坂上田村麻呂の墓」ではないかと注目を集め、先日私も訪ねてみた「西野山古墓」(下写真)のあたりも、筍産地の一角です。

西野山古墓

 写真で見るように、標識の後ろは鬱蒼とした竹林が続いていますが、その昔の賢治も、どこかこのあたりの竹林で筍栽培を見たのだろうかと、私はちょっと感慨にひたっていました。


 ところがその後、修学旅行のこの日の行程をもう少し詳しく検討してみると、賢治たち一行がこの日に山科まで行ったとは、ちょっと考えにくいような気がしてきたのです。

 ここでもう一つの資料として、「校友会報」第三十一号の「農学科第二学年修学旅行記」に、賢治の同級生である原勝成が、この日のことについて書いた記録が『【新】校本全集』第十四巻「校異篇」に収められているので、下に抜粋してみます。

三月二十三日曇 〔京都附近〕     原 勝 成
午前四時九分京都七条駅に着いた、駅前の奉祝門は独り御大典当時の賑さを語つてゐる。先輩の山下川見両君は、遠路態々来り迎へられた、一同東本願寺及西本願寺を訪れ。桂橋側なる万甚楼へと急いだ。(中略)
六時頃楼に着いた、夜来の小雨は名残なく霽れ渡り、朝霧は連山に棚引き、京都第一日目を飾つた。こゝにて朝食を取り、佐藤氏の案内により九時頃府立農林学校に行つた。一先生の案内にて農具室農場等を参観した、(中略)
それよりお隣りの農事試験場を参観した。標本室農場の麦の肥料試験、種類試験等を見、又ポーポーと云ふ珍しき木と、その果実を見た、再び農学校に引き返し茶菓の饗応に預り小憩の後辻井氏の竹林地へ向つた。
竹林地は広大にして、全山数丈の竹鬱蒼として茂つてゐた。この辺り竹林は最も大切なる財産にして、一反歩七百円以上の売買価格を有すると云ふことである。之を以つて見ても如何に竹林に利あり、且つ如何に奨励せられつゝあるかは知るに難くないのである。
辻井氏は又吾々の為めに、特に筍掘りの方法を説明し、尚実地に掘って示された、こゝにて筍二本土産として貰ひ受け一同厚く礼を述べて嵐山へと向つた、(後略)

 この日の行程を地図にマークしてみると、下のようになります。

(1) 東本願寺
(2) 西本願寺
(3) 桂橋
(4) 府立農林学校・農事試験場
(5) 竹林地( A or B?)
(6) 嵐山
(7) 金閣寺
(8) 北野天満宮
(9) 旅館・西富家

 各訪問地の間の道のりを見てみると、まず「京都駅」→「(1)東本願寺」が 0.7km、「(1)東本願寺」→「(2)西本願寺」が 0.9km、「(2)西本願寺」→「(3)桂橋」が 3.7 km、「(3)桂橋」→「(4)府立農林学校」が 0.9km です。
 原勝成の記録によれば、ここまでは交通機関の記載はなく、「急いだ」とか「行つた」などの表現が用いられており、徒歩による移動だったのだろうと推測されます。
 次に訪問した「竹林地」がどこだったかはとりあえず措いておき、上記に続く原勝成の嵐山以降の行程に関する記録は、次のようなものです。

風景の美を以つて誇れる嵐山は、一種雄大なる自然美を発揮し、桂川の清流にその影を流し、渡月橋はこの清流に架せられ、一層の風趣を添へてゐる。山へ登る時間もないので桂川畔より眺めて後電車にて金閣寺へ行つた。
金閣と云ひ庭園と云ひすべて当時義満公の栄華を極めたる有様は十分に偲ぶことが出来る。こゝを見物し終りて、帰途に就き途中衣笠村役場を訪れ、村長より附近の農業状態等を聞いた。(中略)
一同此処を辞し去り北野神社に参拝し、それより電車に乗して旅館なる三条の西富家に向つた。時に午后四時半日漸く西山に傾かんとしてゐた。

「(6)嵐山」→「(7)金閣寺」の道のりは約 7km で、この間は「電車にて」と記されています。「(7)金閣寺」→「(8)北野天満宮」は 1.2km で徒歩でしょうが、「(8)北野天満宮」→「(9)西富家」間は 4.7km で、この間も「電車に乗して」と書かれています。


 さて、「(4)府立農林学校」の次に、賢治たちはどこの「竹林地」に行ったのかというのが本日の問題ですが上の地図で(A)の印を付けた位置が、山科の「西野山」です。府立農林学校からこの場所までは、10km 以上ありますが、原勝成の記録には、「小憩の後辻井氏の竹林地へ向つた」とあるだけで、交通機関を利用したような様子は読みとれません。
 さらにこの山科から「(6)嵐山」に向かったとすると、府立農林学校から積算の道のりは 20数km となり、いくら健脚の若者といえども、この日のスケジュールの中で歩いて移動するのは、不可能と思われます。

 となると、この日に賢治たち一行が訪ねた「竹林地」は、もう少し桂や嵐山から近くにあったはずです。私としては、それは当時の桂村一帯(現在の洛西地区)に広範囲に分布していた竹林の、どこか一角だったのではないかと思うのです。
 例えば、上の地図で(B)印を付けた場所は、「京都市洛西竹林公園」です。1970年代にこの地域に「洛西ニュータウン」が建設されるにあたり、もとからあった広大な竹林の多くが伐採されましたが、これはそのごく一部を記念のために残して公園化したものです。賢治の時代には、ここに限らず(4)からもっと近くにも竹林が広がっていたと思われ、「辻井氏の竹林地」も、そのうちのどこかにあったのではないでしょうか。


 というわけで、賢治が短歌で「山しなのたけのこばた」と詠んだのは、実際には山科ではなくて、洛西地区のどこかだったのではないかというのが、本日のところの私の考えなのですが、そう結論づける前に、あと二つほどの他の可能性について検討しておかなければなりません。

 その一つは、翌3月24日に一行が見学した、「府立農事試験場桃山分場」です。ここでも試験作物として筍が栽培されており、こちらの写真を見ていただくと、1909年における「桃山分場孟宗筍掘取ノ状」がわかります(「京都北山アーカイブス」より)。これも、十分に「たけのこばた」と呼べるものですから、賢治がここで短歌を詠んだと考えられなくもありません。
 ただしかし、このような研究施設に、「そらわらひする商人のむれ」がいるというのが、ちょっと決定的にありえなさそうなところです。

 あともう一つの可能性として、一行は3月26日に京都での行程を終えて、「京津電車」で滋賀県大津市に向かいますが、その途中で電車は山科を通過するのです。前にも引用した「校友会報」の修学旅行記のこの日の項には、「八時宿を出で京津電車にて大津に向ふ。山科の辺を過ぐ。大石良雄に有名たり。名所旧跡又多し。追分過ぎて大津に着く。」と記されています。
 この車窓から、賢治が「山しなのたけのこばた」を見て、短歌に詠んだという可能性も考えられなくはありません。しかし、走っている電車から「そらわらひする商人のむれ」を観察するのは、ちょっと困難だろうということ、さらにこの京津電車の沿線には、ほとんど竹林はないことから、やはりこの可能性も無視してよいと思います。


 結局やはり、「山しなのたけのこばた」の舞台は、山科ではなくて洛西地区のどこかだったのではないかと、私としては考えるのです。ただ、ここにまだ二つほどの問題点は残ります。
 一つは、ほとんど事実にもとづいて歌作をしていたと思われる賢治が、なぜ実際には別の場所だったのに、「山しなのたけのこばた」と書いたのかという問題です。これは難問ですが、たとえば賢治はあらかじめ「京都の筍の産地と言えば、山科」という先入観があって、それが思わず短歌の表現に出たのでしょうか。
 もう一つの問題は、「〔歌稿A〕」「〔歌稿B〕」とも、「257 山しなのたけのこばた」の歌は、「256 日はめぐり幡はかゞやき紫宸殿たちばなの木ぞたわにみのれる」の歌の後に位置していますが、旅行の行程では、「竹林地」を訪ねたのは3月26日、御所の「紫宸殿」を拝観したのは翌日の3月27日なのです。原則として時間順に配列されている歌稿において、どうしてここで逆転が起こっているのかということも、原因不明です。


 最後に、「そらわらひする商人のむれ」という表現について。
 その具体的情景についてはいま一つぴんと来ませんが、上記の原勝成の記録を見ると、竹林地の所有者とおぼしき「辻井氏」は、しきりに「この辺り竹林は最も大切なる財産にして、一反歩七百円以上の売買価格を有する」「竹林に利あり」などと、金銭的な側面を強調して述べているようです。
 ひょっとして、これを聴いていた賢治は、「こんな奴は農民ではなくて商人だ」と内心忸怩たる思いがあって、彼らを「そらわらひする商人」と表現したのではないかとも思ったり・・・。