先日の記事「山しなのたけのこばた」で、1916年3月26日に賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行において、京都府立農林学校や嵐山、金閣寺、衣笠村役場、北野神社などを訪ねたということに触れました。
この日の主要な目的地だった「京都府立農林学校」については、Wikipedia の「京都府立農林専門学校(旧制)」という項目が、詳しい説明をしてくれています。この学校は何度も名称の変更を経ているようですが、現在の京都府立大学の遠い前身の一つにあたります。賢治が訪ねた1916年当時は、葛野郡桂村―現在の阪急桂駅の北200mほどの場所に校舎があったことが、上記の Wikipedia の説明に書いてあります。
当時の学校の写真は、ネット上で探しても見つからなかったので、図書館で『京都府立大学百年誌』(1995)という本を見てみると、校地が桂村にあった当時の写真が載っていました(下写真)。賢治たちも、この校舎を訪問したわけですね。
また、この府立農林学校の隣にあったという「農事試験場」については、「京都北山アーカイブス」に、明治末期ー大正初期の写真が掲載されています(下記リンク)。
・京都府立農事試験場1
・京都府立農事試験場2
・京都府立農事試験場3
・京都府立農事試験場4
・京都府立農事試験場化学試験室1
・京都府立農事試験場化学試験室2
賢治たち一行がこの後に訪れた、嵐山、金閣寺、北野神社は、もちろん現在も有名観光地ですが、「衣笠村役場」が現在のどこにあったのかということについては、ネット上で調べただけでは、ちょっとわかりませんでした。
金閣寺などがある京都市北区の一部は、1918年に京都市に合併吸収されるまでは、「葛野郡衣笠村」として京都市とは別の村だったのですが、当時の「村役場」は、どのあたりにあったのか・・・?
これも図書館で、『京都市立衣笠小学校百周年記念誌』(1973)というのを眺めていると、下のような写真が見つかりました。
「平野小学校」というのは、現在の「京都市立衣笠小学校」で、何とその校地の中に、往時の「衣笠村役場」はあったのです。さらにこの校内には駐在所もあって、小さな村の行政の中心というべき場所だったようですね。
賢治たち一行が衣笠村役場を訪ねると、村長がみずから、村の農業について詳しく説明をしてくれたようです。下記は、「校友会報」第三十一号「農学科第二学年修学旅行記」の、原勝成による記録より。
こゝ(金閣寺)を見物し終りて、帰途に就き途中衣笠村役場を訪れ、村長より附近の農業状態等を聞いた。実に本村は都会附近として感心すべき処にて、全村殆んど農業にて商業工業を営むものは必ず一家を破滅せしむるものであると云ふことを深く信じて、一生懸命農業に従事してゐるとの事にて、従つて皆富んでゐて実に模範とすべき村である。
こんどの連休にもし天気がよかったら、賢治の京都における修学旅行跡をたどってみようかとも思っています。
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