今朝の朝日新聞の「be」という紙面には、鹿踊りの見事な写真とともに、「詩人の妹の恋と修羅」と題して、トシについての記事が載っていました。トシの「初恋」のことや「自省録」について、山根知子さんのお話が出ていて、たまたま私は朝起きる前にふとんの中で、山根知子著『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』の巻末に収録されている、宮澤トシの「自省録」を読んでいたところだったので、偶然に驚きました。
それにしても、トシが書いたこの「自省録」と呼ばれる文章は、本当に感動的です。
ところで、先週のトシの命日(11月27日)に、賢治とトシがそれぞれ結核のために療養した期間を図にしてみました。
この図では、賢治とトシの時間は並行していませんのでご了解下さい。下にも書いたように、この療養生活の間に、短い貴重な輝きを放ったそれぞれの「8ヵ月」が、横に並ぶようにしてあります。
で表している部分は、病状が重く「安静臥床」の必要があった時期です。少し薄いで表している部分は、やや回復して起座や歩行が自由にできる、「リハビリ的」な時期、白色の部分は、ひとまず「健康」になって、職業に就いていた時期です。
ところで、以前にも書いたことですが、1918年12月から翌年春にかけてのトシの病気は、主治医からは最初「チフスの疑い」と言われ、年明けには「悪性のインフルエンザ」と診断され、2月3日に至って医師から初めて「インフルエンザ回癒後下肺部に一時的の且つ極めて小部分乍ら結核有之し由」(賢治書簡[138])という話が出ていますが、これは12月の発病当初から、結核性の肺炎だったと考えるべきでしょう。
トシ自身が、この年11月に「スペイン風邪(=インフルエンザ)」に罹り、「応接間に隔離して四日ばかり休みまして昨日から全快して又室に帰って居ります」と父あて書簡に書いていることから、その1ヵ月後に同じウイルスに再感染することはありえないからです。
ということで、この時の病状を最初から「結核療養期間」として認めると、上の図になるわけです。
二人が仕事をした期間を見てみると、賢治は、1931年1月中旬に「東北砕石工場技師」の辞令を鈴木東蔵から受け取って、それから毎日のように県内各地や他県へ、石灰肥料の売り込みのために奔走します。挙げ句の果てに出張先の東京で倒れたのは、同年の9月20日でした。
トシは、1920年9月末に「花巻高等女学校教諭心得」に任ぜられ、おそらく10月から教壇に立ち、3月には盛岡の外人宣教師のもとに通って英語の発音のブラッシュアップに努めたり、4月には上京して母校の日本女子大学に教師の斡旋を頼んだりしていましたが、体調は徐々に悪化し、6月から再び臥床生活に入ってしまいます。
というわけで、たまたま二人とも、死を前に仕事に打ち込んだ期間は、どちらもちょうど8ヵ月間だったというのが、偶然の一致です。
賢治が創作活動の半ばで亡くなってしまったのも、もちろん私としては悔しいことですが、「自省録」に見るような素晴らしい知性と献身的精神を備えた類い稀な女性が、社会に出ることわずか8ヵ月で世を去ったというのは、かえすがえす残念なことです。
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