千億の?明滅 9月23日の発表で、最後に表示したスライドのことを、草野心平記念文学館の小野浩さんは、「カワイイ!」と言って下さいました。 そこで、下記にその小型版GIFアニメーションを作ってみました。画像の下のボタンで操作できます。 ちょっと漫画チックで、とても千億もある脳の神経細胞の明滅を表すような代物ではありませんが・・・。 ツイートする この記事に付けられたタグ 「詩ノート」(10記事), 〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕(7記事), ニューロン(2記事) 前の記事 次の記事 コメント ゆふ 2006年10月 1日 04:52 なんと美しい人間の脳の明滅! ブラボー! ブラボー! ブラボー! 毎秒40ビットの「わたくし」と思えるもの ( こころの影を恐るなと まことにさなり さりながら・・・ ) なんと哀しい人間の脳の明滅! ブラボー! ブラボー! ブラボー! 返信 hamagaki 2006年10月 1日 19:35 ゆふ様、コメントをありがとうございます。 こゝろの影を恐るなと まことにさなり さりながら こゝろの影のしばしなる そをこそ世界現実といふ 「〔こゝろの影を恐るなと〕」 意識現象の「しばしなる」様子―「意識の流れ」の「流れ」たる所以―について、W.ジェイムズは、次のように書いています。ちょっと長くなりますが、引用してみます(『心理学要論』より)。 われわれの意識の不思議な流れを概観したとき、まず印象に残るのは、各部分で速さが異なるということである。それは鳥のように、繰り返し飛んだり休んだりしているように見える。この流れは、言葉のリズムにあらわれる。つまり、ひとつひとつの考えは文で表現され、また、ひとつひとつの文はピリオドでくくられる。休止する箇所はふつう、何らかの感覚的な想像でいっぱいになっている。そして、その想像は、いつまでも心に浮かべ、変化させることなくじっと考えていられるという特徴を持っている。一方、飛翔する箇所は、たいていは休んでいるときに深く考えられる事柄同士のあいだに築かれる、静的あるいは動的な関係についての考えで満たされている。 この休止する箇所を思考の流れの「実質的な部分」、飛翔する箇所を「推移的な部分」と呼ぶことにしよう。われわれの思考は常に、ある実質的な部分を離れると、すぐさま別の実質的な部分へ向かうようである。したがって推移的な部分は主に、ある実質的な結論を他の実質的な結論へと導く役割を担っているといえよう。 ところで、自分の心の中を注意深く見ること(内省)によって、推移的な部分が実際にどんなものなのかを知るのはとても難しい。この推移的な部分がたんに結論までの飛翔にしかすぎないのであれば、結論に達する前にこれを観察しようとその動きを止めてしまうと、結局その部分を消滅させてしまうことになる。だが一方、結論に達するまで待とうものなら、結論の方が推移的な部分よりはるかに強く安定しているため、その光に飲みこまれてしまう。思考を途中で切って、その断面を見ようとすれば、誰でも、推移的な部分を内省するするのが以下に難しいかがわかるだろう。思考はあまりにも一気に突き進んでいくので、つかまえる前に、ほぼ必ず結論に達してしまう。われわれの注意が、実際にその思考をつかまえられるほど鋭かったとしても、つかまえた瞬間には別のものになっているのだ。ひとひらの雪は、温かい手でとらえられたときには、すでに雪のかけらではなく水滴になっている。 返信 ゆふ 2006年10月 3日 06:37 ジェイムズのことをお教えいただき、ありがとうございます。意識の流れの飛翔する箇所を、温かい手でとらえようとしたひとひらの雪のようだという比喩はおもしろいと思いました。賢治の詩「習作」の「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」はクラインの壷風にジェイムズともかかわっているのでしょうか。 夏の夕暮れ時、つめくさの花は本当にぼんぼりのようにぽっと白くうきでてみえますが、もうこのあたりでは咲き終わりました。なぜ「とりいれまぢかに年ようれぬ」なのかと思っていましたら、先日種山ヶ原で、ススキやエゾリンドウ、ウメバチソウに混じってつめくさがまだきれいに咲いていました。 the revery alone will do! 脳は世界現実のみならず夢もうみだせる、不思議な明滅ですね。 返信 コメントの投稿 コメントの返信 コメント (スタイル用のHTMLタグを使えます) お名前 メールアドレス(任意) URL(任意) サインイン情報を記憶
ゆふ 2006年10月 1日 04:52 なんと美しい人間の脳の明滅! ブラボー! ブラボー! ブラボー! 毎秒40ビットの「わたくし」と思えるもの ( こころの影を恐るなと まことにさなり さりながら・・・ ) なんと哀しい人間の脳の明滅! ブラボー! ブラボー! ブラボー! 返信
hamagaki 2006年10月 1日 19:35 ゆふ様、コメントをありがとうございます。 こゝろの影を恐るなと まことにさなり さりながら こゝろの影のしばしなる そをこそ世界現実といふ 「〔こゝろの影を恐るなと〕」 意識現象の「しばしなる」様子―「意識の流れ」の「流れ」たる所以―について、W.ジェイムズは、次のように書いています。ちょっと長くなりますが、引用してみます(『心理学要論』より)。 われわれの意識の不思議な流れを概観したとき、まず印象に残るのは、各部分で速さが異なるということである。それは鳥のように、繰り返し飛んだり休んだりしているように見える。この流れは、言葉のリズムにあらわれる。つまり、ひとつひとつの考えは文で表現され、また、ひとつひとつの文はピリオドでくくられる。休止する箇所はふつう、何らかの感覚的な想像でいっぱいになっている。そして、その想像は、いつまでも心に浮かべ、変化させることなくじっと考えていられるという特徴を持っている。一方、飛翔する箇所は、たいていは休んでいるときに深く考えられる事柄同士のあいだに築かれる、静的あるいは動的な関係についての考えで満たされている。 この休止する箇所を思考の流れの「実質的な部分」、飛翔する箇所を「推移的な部分」と呼ぶことにしよう。われわれの思考は常に、ある実質的な部分を離れると、すぐさま別の実質的な部分へ向かうようである。したがって推移的な部分は主に、ある実質的な結論を他の実質的な結論へと導く役割を担っているといえよう。 ところで、自分の心の中を注意深く見ること(内省)によって、推移的な部分が実際にどんなものなのかを知るのはとても難しい。この推移的な部分がたんに結論までの飛翔にしかすぎないのであれば、結論に達する前にこれを観察しようとその動きを止めてしまうと、結局その部分を消滅させてしまうことになる。だが一方、結論に達するまで待とうものなら、結論の方が推移的な部分よりはるかに強く安定しているため、その光に飲みこまれてしまう。思考を途中で切って、その断面を見ようとすれば、誰でも、推移的な部分を内省するするのが以下に難しいかがわかるだろう。思考はあまりにも一気に突き進んでいくので、つかまえる前に、ほぼ必ず結論に達してしまう。われわれの注意が、実際にその思考をつかまえられるほど鋭かったとしても、つかまえた瞬間には別のものになっているのだ。ひとひらの雪は、温かい手でとらえられたときには、すでに雪のかけらではなく水滴になっている。 返信
ゆふ 2006年10月 3日 06:37 ジェイムズのことをお教えいただき、ありがとうございます。意識の流れの飛翔する箇所を、温かい手でとらえようとしたひとひらの雪のようだという比喩はおもしろいと思いました。賢治の詩「習作」の「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」はクラインの壷風にジェイムズともかかわっているのでしょうか。 夏の夕暮れ時、つめくさの花は本当にぼんぼりのようにぽっと白くうきでてみえますが、もうこのあたりでは咲き終わりました。なぜ「とりいれまぢかに年ようれぬ」なのかと思っていましたら、先日種山ヶ原で、ススキやエゾリンドウ、ウメバチソウに混じってつめくさがまだきれいに咲いていました。 the revery alone will do! 脳は世界現実のみならず夢もうみだせる、不思議な明滅ですね。 返信
ゆふ
なんと美しい人間の脳の明滅!
ブラボー! ブラボー! ブラボー!
毎秒40ビットの「わたくし」と思えるもの
( こころの影を恐るなと
まことにさなり さりながら・・・ )
なんと哀しい人間の脳の明滅!
ブラボー! ブラボー! ブラボー!
hamagaki
ゆふ様、コメントをありがとうございます。
意識現象の「しばしなる」様子―「意識の流れ」の「流れ」たる所以―について、W.ジェイムズは、次のように書いています。ちょっと長くなりますが、引用してみます(『心理学要論』より)。
ゆふ
ジェイムズのことをお教えいただき、ありがとうございます。意識の流れの飛翔する箇所を、温かい手でとらえようとしたひとひらの雪のようだという比喩はおもしろいと思いました。賢治の詩「習作」の「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」はクラインの壷風にジェイムズともかかわっているのでしょうか。
夏の夕暮れ時、つめくさの花は本当にぼんぼりのようにぽっと白くうきでてみえますが、もうこのあたりでは咲き終わりました。なぜ「とりいれまぢかに年ようれぬ」なのかと思っていましたら、先日種山ヶ原で、ススキやエゾリンドウ、ウメバチソウに混じってつめくさがまだきれいに咲いていました。
the revery alone will do!
脳は世界現実のみならず夢もうみだせる、不思議な明滅ですね。