朝起きてTVをつけると、これから小泉首相が靖国神社に参拝するところだといって、ものものしい中継をやっていました。
今からちょうど90年前の1916年8月、盛岡高等農林学校生だった賢治は上京して、毎日「東京独逸学院」に通ってドイツ語の夏季講習を受けていました。麹町3丁目の旅館に滞在しつつ、神田の学院まで徒歩で通学していたようですが、その経路は、半蔵門から靖国神社のすぐ脇を通って、九段から靖国通りを東へ、という道筋だったと推測されています(賢治の事務所の「宮沢賢治の東京における足跡」参照)。
ということは、90年前の今日も賢治は、今朝のテレビ中継で黒塗りの公用車が走った道を、一人で歩いていたのだろうか、と思います。
さてTVを消して朝食をすませると、今日はまず朝日橋たもとの里川口町にある「画廊たきた」まで歩いて行きました。
現在ここでは「風の巡礼~滝田恒男詩画展」と題して、吹張町の「賢治の広場」とともに、滝田さんが賢治ゆかりの地を描いた水彩画が展示されているのです。こちらの会場は、滝田さんの本業である理髪店の2階が小さなギャラリーになっていて、そこに全ての「経埋ムベキ山」を描いた32枚がずらりと並べてありました。
もし滝田さんがいらっしゃったら教えていただきたいと心づもりしていたこともあったのですが、お盆のためか階下の理髪店も休業で、画廊にはどなたもおられませんでした。
一枚一枚どの絵も、何となく賢治の孤独感が伝わってくるような雰囲気を帯びていて、私以外まだ誰もおられない中で、ゆっくりと拝見させていただきました。
次は、胡四王山麓のイーハトーブ館に行き、「宮沢賢治と温泉展」を見てきました。「宮沢賢治」&「温泉」と言えば、JR花巻駅に「温泉と賢治の里」というキャッチフレーズが掲げられているがごとく、現在の花巻市の二大観光資源です。岡村民夫さんと杉浦静さんの企画監修による今回の展示は、テーマの持つ力を着眼の面白さで存分に発揮させ、内容も豊富で充実したものでした。
来年2月末まで展示は続けられていますので、花巻を訪れる賢治ファンにはお勧めだと思います。
ところで、昨日イーハトーブ館の周辺をぶらぶらしていると、館の裏手あたりに、「宮沢賢治句稿」と刻まれた小さな石碑(左写真)が立っていることに気がつきました(昨日まで気がつきませんでした)。この碑の側面を見ると「昭和59年」と刻まれていて、これでは館よりも古いことになってしまいますので、その由来についてイーハトーブ館の牛崎さんにご教示を乞いました。
牛崎さんによれば、この碑は森荘已池氏が生前に石屋に注文して作らせていたものだそうで、森氏が亡くなってそのままになっていたところ、イーハトーブ館が「森荘已池展」を開いた際にこの地に持ってこられて、そのままになっているのだそうです。
後に、森荘已池氏の遺志をご令嬢の森三沙さんが継いで、2001年にその「正式版」として建立されたのが「菊花品評会」句碑ですが、たしかに正式版の方が碑石なども立派ではあるものの、そこに刻まれているのは5句であるのに対して、こちらの旧版には11句も入っています。正式に石碑として「認知」されここに「建立」されているわけではないので、周囲に何の説明もありませんし、賢治詩碑の案内書などにも全く触れられていませんが、私のような賢治詩碑フリークにとっては、思わぬ「掘り出し物」という感じです。
昼前にイーハトーブ館を後にすると、花巻市立図書館に行って『花巻市史』のコピーをとらせてもらい、そこでついでに思わぬことがわかったので、それからもう一度小岩井駅に向かうことにしました。
花巻駅まで歩いたりしていたので、2時間ほどで小岩井駅に着き、駅の前を東西に走る「小岩井駅前通り」をしばらく東へ歩くと、あるお宅の垣根のところに外へ向けて詩碑が建てられていました。
友だちと
鬼越やまに
赤銹びし仏頂石のかけらを
拾ひてあれば
雲垂れし火山の紺の裾野より
沃度の匂しるく流るゝ
この石碑の建立者にご挨拶をして、お話をうかがいたいと思って呼び鈴を押しましたが、やはりお盆のためかお留守で、通りの方から碑の撮影だけさせていただいて帰りました。
昨日も少しだけ小岩井に来てみたものの、この碑の場所が見つけられずいったん花巻に向かうことになり、今回の旅行はほんとにうろうろとばかりしています。しかしそのおかげで、昔から見つけられなかった詩碑二つにも遭遇するとは、うろうろすることもあながち無駄ではないようです。
花巻に戻った時にはすでに夕方でした。
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