新美南吉の女学校教師時代の教え子の方が、南吉から贈られた童話集『おぢいさんのランプ』(1942)を、愛知県半田市にある新美南吉記念館に寄贈したというニュースがありました。
そしてその本の表紙見返しには、新美南吉からの献辞として、「春と修羅」からの一節、「まことのことばはうしなはれ/雲はちぎれてそらをとぶ」が、「…宮澤賢治の詩から」と添えて書きつけられていたということです(上写真)。
若き日の賢治のこの痛切な詩句を、新美南吉も愛誦していたのでしょうか。
彼も、「地方で教師を務め、若くして結核で亡くなった童話作家」で、安城高等女学校で担当した科目は、「英語」「国語」そして「農業」でした。
賢治の事務所員
浜垣さま こんばんは。
確か南吉さんも東京外語学校時代に東京での賢治友の会の集会に出ていたと思います。
確かその時の集合写真に写っていたのをどこかで見たような気がします。
永瀬清子さんが記しておられる新宿モナミでの集会だったような気もしますが、ちょっと自信がありません。
だれかフォローしてくれるかな・・・。
hamagaki
賢治の事務所員さま、こんばんは。
もう昨日になってしまいましたが、サイト10周年おめでとうございます。この10年間、Web 上で賢治関連の情報発信の中心にありつづけた貴サイトは、私にとってもつねに灯台の光でした。
これからも、「事務所」のますますのご発展をお祈り申し上げます。
さて、新美南吉が「賢治友の会」に出席したのは、「新美南吉記念館」HPのFAQによれば昭和9年のことのようで、ご指摘のとおり東京外国語学校の学生時代ですね。まだ南吉は21才でしょうか。
「集合写真」というのは、私も何となく目にしたことがあるような気もしますが、あらためてきちんと見てみたいものです。
今後もよろしくお願い申し上げます。
ネリ
hamagakiさま、賢治の事務所員さま
こんにちわ。
昭和9年2月16日に新宿・モナミでの「『宮沢賢治追悼』出版記念会」(第一回宮沢賢治友の会)に新美南吉は出席しています。巽聖歌に出席要請があり、巽が新美を誘ったようです。新美南吉は、早い時期から賢治に関心があったようで、たしか日記のどこかに賢治の名前が出ていたように思います。(ただ、その日記については、全貌が公開されていない様です…。牧書店版の全集にこのあたりのことが書かれていたように思いますが。今は、忘れました。)
「三日月形の村」hamagakiさんの推定とおりのような気がします。すっきりしました。
hamagaki
ネリ様、こんばんは。
素晴らしい「フォロー」を、ありがとうございます。
巽聖歌が、間を取り持っていたんですね。たまたま私は今年の1月に日詰町に行ってきたのですが、日詰出身の巽聖歌のことは、この時にやっと知りました。
新美南吉にとっては『赤い鳥』の先輩であり、賢治とは同郷の詩人・・・・・・。
まさにこの人こそ、二人のあいだの時間的・空間的距離をぴたりと埋めてくれる「パズルの1ピース」のような存在に思えてしまいますが、現実に南吉が賢治を知ったのは、巽聖歌からの影響だったのでしょうか、それとも独自に知っていたのでしょうか。
そのあたり、新美南吉の日記に書いてあればおもしろいですね。
いつもながら、ネリ様の博識に感嘆、です。
賢治の事務所員
浜垣さま、ネリさま こんばんは。
いつもお世話になっております。
浜垣さま、サイト10周年のコメントありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
ネリさま早速のフォローありがとうございました。お二人のコメントを読んで安心しました。南吉の日記の件ですが、(記憶が曖昧なものばかりですみませんが)南吉記念館の展示に賢治に触れた部分があったような気もします。
以前に買い求めた南吉の詩集「墓碑銘」巽聖歌編(英宝社)を見ると、詩に作品日付を付していたり、本文のところどころに賢治からの影響と思われる表現があったりと興味は尽きません。
また、詩集のカバーの折り返しには草野心平のコメントもついていて、少なからず賢治を仲立ちにした交流があったのでは・・・と想像をふくらませてみたくなります。
hamagaki
賢治の事務所員さま、お帰りなさい。
「花巻ぼけ」は大丈夫ですか?(笑)
どうか、お身体に気をつけて。11年目も、各地からの情報を期待しています。