今日5月15日は、京都では葵祭、東京ではサッカーW杯日本代表選手発表が行われましたが、花巻市太田の高村山荘では、「高村祭」が開かれました(岩手日報記事参照)。
この5月15日というのは、賢治祭のように詩人の命日というわけではなくて、光太郎が花巻に疎開してやって来た日なのだそうですね。
ここで賢治祭における「雨ニモマケズ詩碑」に相当するのは、山荘近くにある「雪白く積めり詩碑」で、当日はこの碑の前で、献花や献茶、詩の朗読などが行われます。
昨日、「その南の三日月形の村(2)」において「智恵子抄泉」という泉について触れましたが、泉の傍らに建つ碑(右写真)には、光太郎の「案内」という詩から、「山の水は山の空気のやうに美味」という一節が刻まれています。揮毫は、賢治詩碑建立の実行委員長もした、佐藤隆房氏です。
作品全体を読んで、光太郎が誰を「案内」していたのかを知ると、山荘の裏にあるこの泉が、人々によって自然と「智恵子」の名前を冠して呼ばれるようになった由縁がわかるような気がします。
案内
三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯ういふところ好きでせう。
智恵子が亡くなったのは1937年で、光太郎が花巻町の宮澤家から太田村の山荘に移ったのは、8年後の1945年10月でした。ここで彼は農耕自炊をして、7年を過ごします。
賢治は果たせませんでしたが、光太郎は、「その南の三日月形の村」で生活をすることができたわけですね。
ところで今年はちょうど、光太郎没後50周年にあたります。
「雪白く積めり」詩碑(2006.5.4)
コメント