連休前とあって、なかなか更新の方に手がまわらず申しわけありません。
ところで先日、東京の西ヶ原へ行った際に、近くの隅田川を見に行ってみると、あにはからんや、「隅田川」という作品に出てくるような「泥洲」や「芦」など、これっぽっちもない場所だったという話については、「西ヶ原など」という記事に書きました。
賢治が関豊太郎博士を農事試験場または自宅に訪ねて、そこから一緒に隅田川へ行ったのなら、西ヶ原から近い場所だったろうなどという憶測は、机上の空論にすぎなかったわけですね。さらに、この西ヶ原のあたりを流れている川は、現在はもちろん「隅田川」と呼ばれていますが、大正時代にはこれは隅田川ではなかったようで、その意味でもこれは空しい論でした。
秩父の山あいから流れてきた荒川は、現在の地図では埼玉県と東京都の県境近くにある「岩淵水門」で荒川と隅田川に分かれ、二川とも都内を南に流れて、東京湾に注ぎます。現在の河川法において「隅田川」とは、この岩淵水門から河口までの、23.5kmの流れのことです。
一方、岩淵水門より下流で現在「荒川」と呼ばれている川は、1930年(昭和5年)に「荒川放水路」として、人工的に掘削された水路でした。そしてそれ以前は、岩淵水門から下流は、現在の隅田川の水路の方が実は「荒川」だったのです。
そうなると、いったい「隅田川」はどこにあったんだ、ということになりますが、この「隅田川」という名前は、法律的には「荒川」であった河川の一部に対する「通称」だったのだそうです。通称ですからその正確な範囲は特定しづらい面はありますが、おおむね千住大橋より上流は「千住川」、千住大橋から両国橋までの間が「隅田川」、両国橋から下流は「大川」と呼ばれていた、というのが昭和5年「荒川放水路」完成までの実態のようです。
すると、西ヶ原のあたりを流れている現在の「隅田川」は、大正時代には正式には「荒川」、通称では「千住川」だったということになってしまうわけですね。
で、ここで問題は、大正時代に「隅田川」と呼ばれていた範囲において、賢治の文語詩にあるように人が踊れるような「泥洲」があったり、「芦」が生えたりしていた場所は、はたして実際にあったのだろうか、ということです。
現在の隅田川で、千住大橋から両国橋の間には、そのような場所は残念ながらないようです。これはもちろん川岸に沿って歩いてみれば確認できることですが、現代では Google Earth の衛星写真によって、鳥瞰してみることもできます。
下の写真は、言問橋や隅田公園のあたりの画像です。(クリックすると、より大きな画像が開きます。)
このようにして、隅田川に沿ってずっと上空から調べても、現在は「泥洲」や「芦原」はどこにもないのです。
もちろん現代の隅田川にそれらが存在しないからと言って、大正時代の隅田川にもなかったとは言えません。正確には、昔の写真などをたくさん集めて調べてみるしかないでしょう。
しかし、荒川放水路が開削される以前は、隅田川(当時の「荒川」)の水量は、現在よりも多かったはずですから、隅田川の川幅が変わっていないとすれば、水深は今よりも深かっただろうと推測されます。やはり「泥洲」や「芦原」は、存在しなかったのではないでしょうか。
すなわち、賢治が文語詩「隅田川」に書いた花見の場所は、実際には当時の隅田川ではなかったのではないかと思われるのです。
宮沢俊司氏が、『宮沢賢治文語詩の森 第二集』所収の「隅田川」評釈において、この作品の舞台を隅田川べりではなく、当時造成中の荒川放水路脇の「荒川堤」ではないかとの説を提唱しておられるのも、このような状況からして有力な考え方であると、あらためて思います。
それから最後に、もしこの作品が隅田川ではない場所での出来事を描いているのだとすると、なぜ賢治はこれに「隅田川」という題名を付けたのだろうか、という疑問が残ります。
一つの可能性としては、賢治が晩年になって若い頃の短歌を文語詩に改作した際、これは隅田川での出来事であったかのように何となく「勘違い」をしていたのではないか、ということが考えられます。東京の川べりの花見の記憶が、つい「桜の名所」を連想させてしまったのかもしれません。
一方、もしもこの場所が隅田川ではなかったことを賢治が知っていて、それでもわざと作品を「隅田川」と名付けたとすればどうでしょうか。その場合は、替え歌「隅田川」のページにちょっと書いたように、賢治はこの詩を滝廉太郎の「花」のパロディーとして書いてみた、というような仮説も出てくるわけですが、でもこれは現実には賢治の「勘違い」なんでしょうね。
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