「野の師父」は、比較的小品が多い「春と修羅 第三集」の中では最長の作品で、下記がその全文です。
 豪雨と雷鳴の中、賢治は一人の老農夫のもとへやって来ました。

一〇二〇
   野の師父

倒れた稲や萓穂の間
白びかりする水をわたって
この雷と雲とのなかに
師父よあなたを訪ねて来れば
あなたは椽に正しく座して
空と原とのけはひをきいてゐられます
日日に日の出と日の入に
小山のやうに草を刈り
冬も手織の麻を着て
七十年が過ぎ去れば
あなたのせなは松より円く
あなたの指はかじかまり
あなたの額は雨や日や
あらゆる辛苦の図式を刻み
あなたの瞳は洞よりうつろ
この野とそらのあらゆる相は
あなたのなかに複本をもち
それらの変化の方向や
その作物への影響は
たとへば風のことばのやうに
あなたののどにつぶやかれます
しかもあなたのおももちの
今日は何たる明るさでせう
豊かな稔りを願へるままに
二千の施肥の設計を終へ
その稲いまやみな穂を抽いて
花をも開くこの日ごろ
四日つゞいた烈しい雨と
今朝からのこの雷雨のために
あちこち倒れもしましたが
なほもし明日或は明后
日をさへ見ればみな起きあがり
恐らく所期の結果も得ます
さうでなければ村々は
今年もまた暗い冬を再び迎へるのです
この雷と雨との音に
物を云ふことの甲斐なさに
わたくしは黙して立つばかり
松や楊の林には
幾すじ雲の尾がなびき
幾層のつゝみの水は
灰いろをしてあふれてゐます
しかもあなたのおももちの
その不安ない明るさは
一昨年の夏ひでりのそらを
見上げたあなたのけはひもなく
わたしはいま自信に満ちて
ふたゝび村をめぐらうとします
わたくしが去らうとして
一瞬あなたの額の上に
不定な雲がうかび出て
ふたゝび明るく晴れるのは
それが何かを推せんとして
恐らく百の種類を数へ
思ひを尽してつひに知り得ぬものではありますが
師父よもしもやそのことが
口耳の学をわづかに修め
鳥のごとくに軽佻な
わたくしに関することでありますならば
師父よあなたの目力をつくし
あなたの聴力のかぎりをもって
わたくしのまなこを正視し
わたくしの呼吸をお聞き下さい
古い白麻の洋服を着て
やぶけた絹張の洋傘はもちながら
尚わたくしは
諸仏菩薩の護念によって
あなたが朝ごと誦せられる
かの法華経の寿量の品を
命をもって守らうとするものであります
それでは師父よ
何たる天鼓の轟きでせう
何たる光の浄化でせう
わたくしは黙して
あなたに別の礼をばします


 つい先日、「広島の原爆供養塔に宮沢賢治の雨にも負けずの詩を刻んだ石碑があります」との情報をいただきましたので、昨夜は広島市内に泊まり、今朝その「雨ニモマケズ」詩碑を見学してきました。

原爆供養塔
原爆供養塔

 原爆供養塔は、上写真のような「土饅頭」の上に、石造の相輪が立てられたもので、内部には原爆の犠牲になった身元不明の遺骨約7万柱と、氏名のみ判明している遺骨812柱(2025年現在)が納められています。


汎心論の系譜

 「春と修羅 第二集」所収の「嬰児」という詩は、当初「下書稿(一)」の第一形態では、「触媒」と題されていました。

五二
   触媒
         一九二四、四、一〇、
なにいろをしてゐるともわからない
ひろぉいそらのひととこで
まばゆいくろと白との雲が
つぎからつぎと爆発する
   (あすこに海綿白金プラチナムスポンヂがある)
それはひとつづゝヘリオスコープの照面を過ぎて
いっぺんごとにおまへを青くかなしませる
   (雲なら済むも済まないも
    みんなこっちのかんがへだ)
風は緑褐に膨らんだ
おそろしい杉の梢を鳴らす

 空に浮かぶ「くろと白との雲」が、上空の風によって流され、次々と太陽の前を通り過ぎていきます。太陽を横切る際に、雲は急に激しく輝くので、まるで爆発が起こったかのように見えるのでしょう。賢治はこれを、「あの雲は実は海綿白金で、これが触媒となって爆発が起こっている」という風に、化学実験のように見立てているのです。
 実際のところ、水素と酸素の混合気に海綿白金を触れさせると、その触媒効果によって爆発的に反応が起こり水蒸気が発生しますが、賢治は盛岡高農時代に、この種の実験を経験していたのではないでしょうか。


定稿記入直前推敲

 宮沢賢治は、死を前にした1933年夏に、後に全集編纂時に「定稿用紙」と呼ばれることになる特注の詩稿用紙を作成し、詩の清書に用いました。
 下記は、そうやって書かれた「定稿」の例です。

「定稿」の例
「定稿」の例(『新校本宮澤賢治全集』口絵より)

 この段階の詩稿がいかにも「清書」と感じられるのは、この用紙への記入にあたって、賢治は原則として鉛筆等を用いず、最初からブルーブラックインクのペンを用いていることにもよります。
 それ以前の推敲に使われていた「赤罫詩稿用紙」や「黄罫詩稿用紙」の場合は、最初は鉛筆によって記入される場合がほとんどなのですが、「定稿用紙」ではブルーブラックのペンが使われるのです。

 そして、この「定稿記入」という段階から推敲過程をもう一段階さかのぼって、その直前の稿における最終推敲で使われた筆記具を見てみると、口語詩においては、これもやはりブルーブラックインクのペンであることが、かなり多いのです。

 推敲が「定稿」まで進んだ作品に関して、その関連性を表にすると、次のようになっています。「BBインク」は、「ブルーブラックインク」の略です。


遠い戦争の記憶

 下根子桜の農家に生まれた伊藤与蔵は、賢治より14歳年下で、その耕地が賢治の「下ノ畑」の隣だった縁もあり、羅須地人協会の設立以来の会員でした。伊藤の自宅が火災に遭った際には、賢治が後始末を手伝ったとのことですし、1928年の第1回普通選挙では、賢治に誘われて労農党候補の演説会場に一緒に行ったということです。
 賢治の病気等によって羅須地人協会が立ち消えになった後、20歳になった伊藤は、1931年1月に弘前の歩兵第三十一聯隊に入隊し、同年9月に満州事変が起こると満州に派兵されました。『鉄兜 : 満洲戦記』という記録で聯隊の動きを見ると、派兵時期は1931年11月または1932年4月の二つの可能性がありえますが、現時点で手元の資料からは、どちらかわかりません。
 いずれにせよ、1933年正月に賢治が伊藤に出した年賀状(書簡442c)のあて先は、「満洲国欽州憲兵隊」になっています。

 その満州にいる伊藤から、1933年夏に賢治に手紙が届きました。賢治は入念に下書きをした上で、1933年8月30日(死の3週間前)付けで、返事を出します(書簡484a)。
 その中に、次のような一節がありました。

然しながら亦万里長城に日章旗が翻へるとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるといふやうなことは、私共が子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐えてその中に参加してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僭越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。
殊に江刺郡の平野宗といふ人とか、あなたとか、知ってゐる人たちも今現にその中に居られるといふやうなこと、既に熱河欽州の民が皇化を讃へて生活の堵に安じてゐるといふやうなこと、いろいろこの三年の間の世界の転変を不思議なやうに思ひます。(強調は引用者)


芸術と人生の三段階

 「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の(諸)主義」の項に、次のような一節があります。

芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する

 人生の各時期における芸術の位置づけを、簡潔に三つにまとめていますが、賢治の芸術観や人生観もうかがわれるようで、興味深いです。
 ここでは、「芸術のための芸術」、「人生のための芸術」、「芸術としての人生」というあり方が、それぞれ少年期、青年期、老年期に対応させられていますが、これらは各々具体的にはどういうことなのでしょうか。


詩は決して完成されることはない、ただ見切りを付けられるだけだ。
(Un poème n'est jamais fini, seulement abandonné.)

(ポール・ヴァレリー「『海辺の墓地』について」)

 フランスの詩人・思想家ポール・ヴァレリー(1871-1945)の上記の言葉を見て、宮沢賢治のことを連想しました。
 賢治は死ぬまで飽くことなく自分の詩の推敲を続けましたが、それは未発表の作品のみならず、既に出版した『春と修羅』にも及んでいて、その所蔵本や友人たちへの寄贈本には、様々な手入れが加えられていました。
 彼の詩はまるで、いつまでも果てしない成長と変化を続ける、生き物たちのようでもあります。

 「永久の未完成これ完成である」という彼の言葉も、作品というものは、語の本来の意味では「未完成」が当たり前なのだ、と言っているようにも受け取れます。


月も七っつもってゐる

 1925年1月三陸旅行中の「暁穹への嫉妬」は、夜空に光る土星への恋心と、その星影が夜明けとともに溶け去ってしまう失意を歌った作品です。

  暁穹への嫉妬
         一九二五、一、六、

薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかゞやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かさうとするあけがたのそら
さっきはみちは渚をつたひ
波もねむたくゆれてゐたとき
星はあやしく澄みわたり
過冷な天の水そこで
青い合図winkをいくたびいくつも投げてゐた
それなのにいま
(ところがあいつはまん円なもんで
リングもあれば月も七っつもってゐる
第一あんなもの生きてもゐないし
まあ行って見ろごそごそだぞ)と
草刈が云ったとしても
ぼくがあいつを恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変らない
変らないどこかそんなことなど云はれると
いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる
……雪をかぶったはひびゃくしんと
  百の岬がいま明ける
  万葉風の青海原よ……
滅びる鳥の種族のやうに
星はもいちどひるがへる

 この日、賢治はおそらく夜明け前に八戸線の種市駅で下車し、そこから厳冬の三陸海岸を、徒歩で南下しました。遙か行く手に輝く星に何度も目をやりながら、寒さをこらえつつ歩いたのでしょう。心細い一人旅を導くように瞬く星を眺めるうちに、いつしか恋心が芽生えたのでしょうか。

 3行目にあるその「清麗なサファイア風の惑星」が、12行目では「リングもあれば…」と描写されていることから、確かにこれが土星であることがわかります。
 加倉井厚夫さんによる天体シミュレーション「「暁穹への嫉妬」の創作」によれば、実際この日の夜明け頃、土星は南南東の空に見えていたのです。

 ところで、加倉井さんも上記ページで指摘しておられるように、1925年の時点では、土星の衛星は9個あることが知られていたはずです。いつも科学知識を最先端にアップデートしていたはずの賢治が、ここで「月も七っつ」と書いているのは、不思議なことです。
 そこで今日は、明治以降の文献に出てくる土星の衛星の数について、調べてみました。


比叡山延暦寺賢治忌法要

 今日9月21日は、宮沢賢治忌です。
 例年、この日が秋分の日を含めた連休に当たっている場合は、花巻の「賢治祭」や関連行事に参加するために、岩手県方面に出かけますし、残念ながら平日であれば、仕事のためにどこにも行くことはできません。
 一方、時々ある「9月21日は休日だが、連休ではない」という年には、日帰りで行ける比叡山延暦寺の「賢治忌法要」に、参加させていただきます。
 今年はちょうどそういう年で、さらに記念講演が信時哲郎さんだったので、朝から比叡山に行って来ました。

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賢治忌法要祭壇:後方にかすかに見えるのは賢治の「根本中堂」歌碑