「神戸宮沢賢治の会」のお招きで、来週の日曜3月2日に、神戸市で賢治に関する講演をさせていただくことになりました。下のような美しいチラシができています。

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 私が「宮沢賢治の「ほんとうのさいわい」とは何か」という大それたテーマでお話をさせていただいた後、「影絵劇団 白つめくさ」と「劇団風斜」による、「土神ときつね」の影絵+演劇も上演されます。
 開演は14時、場所はJR「六甲道」駅に接する「灘区文化センター」です。申込みは不要で、入場無料ということです。


天江富弥との面会

 先日ある方から、天江富弥という児童文化研究家・料理屋主人と、宮沢賢治との交友関係について、お問い合わせをいただきました。
 実は先週までは、Wikipedia の「天江富弥」の項目に、「(天江富弥が)宮沢賢治との交流関係をもつ」と記されていて、どこかにその根拠となるような二人の関わりを示す資料が存在するのだろうか、というお話だったのですが、私自身は不勉強にして天江富弥という人の名前さえ知らず、当初は何もわかりませんでした。

 その後、Wikipedia の変更履歴を参照すると、「宮沢賢治との交友関係は確認できない」として、賢治に関する記載は2月13日に削除されているのですが、私の方で少し調べてみると、斎藤庸一という詩人による天江富弥の聞き書きの中に、天江が石川善助・森佐一とともに、花巻に賢治を訪ねたという記載があったのです。


人格的存在としての山

 去る1月30日にニュージーランド議会において、山に人格権を認める法案が、全会一致で可決されたというニュースがありました。

ニュージーランドで山に人格権認める法案が可決、先住民マオリの世界観認める(BBC News Japan

 「山に人格を認める」などとは、いったいどういうことなのかと思いますが、この法律はニュージーランド北島のタラナキ山に対して、山自身の所有権は(人間や政府ではなく)この山そのものに属し、山が人間と同じ権利を有していて、法的保護を受けることを認めたのだということです。

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タラナキ山(Wikimedia Commonsより)


十力で見える世界

 賢治の比較的初期の童話「十力の金剛石」は、すでに様々な宝石を持っている王子が、「もっといゝ宝石いし」を探すために、大臣の子と一緒に旅に出る物語です。
 王子の帽子に付けられた蜂雀に導かれて、二人が暗い森を抜け、草の丘の頂上にやって来ると、ダイアモンドやトパァスやサファイヤが雨や霰のように降り、地に咲くりんどうやうめばちそうや野ばらは、天河石アマゾンストン硅孔雀石クリソコラ猫睛石キヤツツアイ紫水晶アメシストや琥珀や霰石アラゴナイトやルビーでできていました。

「ね、このりんだうの花はお父さんの所の一等のコップよりも美しいんだね。トパァスが一杯に盛ってあるよ。」
「えゝ立派です。」
「うん。僕このトパァスを半けちへ一ぱい持ってかうか。けれど、トパァスよりはダイアモンドの方がいゝかなあ。」
 王子ははんけちを出してひろげましたが、あまりいちめんきらきらしてゐるので、もう何だか拾ふのがばかげてゐるやうな気がしました。

 その野原には、一々拾うのが馬鹿らしくなるほど大量の宝石が、満ちていたのです。

 しかしそれなのに、宝石でできたりんどうもうめばちそうも野ばらも、なぜかかなしそうな様子で歌っています。

十力じふりき金剛石こんごうせきはけふも来ず
めぐみの宝石いしはけふもらず、
十力じふりき宝石いしの落ちざれば、
光の丘も まっくろのよる

 野原のみんなは、「十力の金剛石」というものを待ち望んでいるようですが、それは今日も来ないというのです。


果てしない旅人

 盛岡高等農林学校3年の1917年7月1日、賢治は学友とともに同人誌『アザリア』を創刊しました。その第一号に賢治が寄稿した短篇「「旅人のはなし」から」は、彼が生涯で初めて発表した散文作品です。
 この作品は、語り手「私」が過去に読んだ「ある旅人の話」の内容を、思い出すままに綴ったという形式で書かれていて、旅人が経験したという様々な出来事が、走馬灯のように流れていきます。途中で旅人は、子供の身代わりになって死んだり、男や女や木に恋をしたりもします。
 なかでも、この旅人が経験する出会いと別れには、深い孤独感が漂っています。

 旅人は行く先々で友達を得ました。又それに、はなれました。それはそれは随分遠くへ離れてしまった人もありました。旅人は旅の忙しさに大抵は忘れてしまひましたが時々は朝の顔を洗ふときや、ぬかるみから足を引き上げる時などに、この人たちを思ひ出して泪ぐみました。
 どうしたとてその友だちの居る所へ二度と行かれませうか、二つの抛物線とか云ふ様なものでせう。

(「「旅人のはなし」から」)


 お正月の休みに、藤村安芸子著『宮沢賢治 人と思想』という本を読みました。下のような赤い表紙でおなじみの、清水書院「人と思想」シリーズの一冊で、内外の偉人を取り上げたどの巻もコンパクトかつ適確にまとまっていて重宝なのですが、この「宮沢賢治」の巻は、おもに童話に表現された賢治の思想を、仏教的な観点から分析したもので、とても奧深く刺激的な内容でした。

宮沢賢治 人と思想 宮沢賢治 人と思想
藤村安芸子 (著)
清水書院 (2024/10/21)
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 あけましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

 ところで、今日からちょうど百年前の1925年1月5日の夜、賢治は花巻から三陸地方へ向けて旅立ちました。この旅行中には、出発時の「異途への出発」をはじめ、多くの詩が書かれましたが、翌1月6日明け方の北三陸の海岸を「暁穹への嫉妬」に、1月7日に発動機船に乗って宮古まで航行する間の情景を「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」の連作として残しています。「暁穹への嫉妬」は、後に文語詩に改作されて「敗れし少年の歌へる」となりました。

 その後2004年10月、賢治が発動機船に乗った場所の推定地の一つである普代村堀内に、「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立され、私は賢治の旅から80周年となる2005年1月にこの地を訪れたのですが、図らずもその際に地元の合唱団の方から依頼を受けて、この詩に曲を付けた合唱曲「敗れし少年の歌へる」を作らせていただきました。

 続いて、賢治の旅から90周年になる2015年には、普代村黒崎に「発動機船 一」詩碑が建立されました。私はお誘いを受けて、普代村やお隣の田野畑村の村長さんも出席されたこの詩碑の除幕式に、参加させていただきました。
 相次ぐ詩碑の建立は、賢治と三陸地方の縁を大切にしようという、地元の方々の強い思いの表れかと思います。

 そして、昨年10月のある日、また地元の合唱団の方から私に電話があって、詩碑となっている「発動機船 一」を合唱曲にしてくれないかと、依頼を受けたのです……。


 2024年も残り少なくなってきましたが、今年は宮沢賢治が生涯で唯一出版した詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の刊行100周年にあたるということで、各所で記念のイベントが行われました。
 花巻市の宮沢賢治記念館で8月10日から来年2月9日まで開催されている特別展「刊行100周年 二冊の初版本」もそうですし、盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で12月1日から7日まで行われた「注文の多い料理店」出版100周年ウィークの連続企画もそうでした。
 一方、胡四王山の麓に抱かれた宮沢賢治イーハトーブ館では、7月13日から来年1月30日まで、企画展「1924年の春─『春と修羅』『注文の多い料理店』刊行 100 年─」が開催中ですが、このたびその展示内容を収録した「図録」が発売されました。下の画像は、その表紙と裏表紙です。

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8 γ e 6 α

 前回の記事では、「小岩井農場」の終わり近くの箇所で詩集印刷用原稿では「至上福祉」となっているところが、初版本では「至上福し」という表記に変えられている理由について、印刷所にある「祉」の活字に何らかの問題があったからではないかなどということを想像してみましたが、ほかにも『春と修羅』においては、印刷の段階で、何故か理由のわからない表記の変更が行われている箇所が、いくつかあります。
 その一つは、「蠕虫舞手アンネリダタンツエーリン」の「8エイト  γガムマア  eイー  6スイツクス  αアルフア」という、あの優雅な「アラベスクの飾り文字」です。

 作者賢治が見守る水盤の中のイトミミズは、小さな体で一心に踊っているのですが、その線形の身体が刻々と描く曲線を、「8 γ e 6 α」という文字によって象っているわけで、当時の日本の文学史上でも、これは画期的な表現だったのではないでしょうか。

 このイトミミズの姿態の表現は、作品中では全部で6回登場するのですが、詩集印刷用原稿では、すべて「8エイト  γガムマア  eイー  6スイツクス  αアルフア」と表記されていたのに対し、初版本ではこれらのうち3回は、「エイト ガムマア イー スイツクス アルフア」という形で、「読み仮名だけ」の表記になっているのです。
 この表記では、イトミミズの姿形を文字で写しとった作者のせっかくの工夫が、生かされなくなってしまいますので、原稿の表記の一部を印刷時に読み仮名だけに変えてしまった理由が、私としてはどうしてもよくわからないのです。