先日の小倉豊文氏に関する記事に書いたように、小倉氏は若い頃に聖徳太子の「世間虚仮 唯仏是真(世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり)」という言葉に出会ったことがきっかけで、聖徳太子研究をライフワークにしたということです。
賢治が21歳の時に親友保阪嘉内にあてた書簡には、おそらくこの太子の言葉に由来すると考えられる一節が、引用されています。
退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経。
世間皆是虚仮仏只真。
(1918年〔3月14日前後〕保阪嘉内あて 書簡49より)
書簡49最終葉(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)
先週、小倉豊文氏の生涯について記事を書かせていただいたご縁もあり、昨日はお天気も良かったので、千葉県東金市にある小倉氏のお墓参りに行ってきました。
京都駅から8時前の新幹線に乗り、品川で千葉行きの普通電車に乗り換え、千葉からは外房線・東金線経由の普通に乗って、11時半に東金駅に着きました。
駅前の花屋さんで花を買って、ここからは路線バスもあるのですが、往路は時間の関係でタクシーに乗りました。目的地は、下の地図の赤いマーカーを立ててあるあたりです。
去る10月11日、ノルウェーのノーベル委員会は、2024年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与すると発表しました。
唯一の被爆国である日本が、その体験を世界に伝え、核廃絶を呼びかけつづけることの重要性は、今さらここに繰り返すまでもありませんが、個人として戦後の最も早い時期に、自らの詳細な被爆体験記を発表して、「広島のような経験を、人類は再びするなよ」と痛切に訴えたのは、歴史学者であり宮沢賢治研究者でもある、小倉豊文氏でした。
1948年に刊行されたその著書『絶後の記録─広島原子爆弾の手記』について小倉氏は、「恐らく当時の占領軍G.H.Q.のOKを得た最初の(原爆に関する)出版」と述べておられます(小倉豊文『ノーモア・ヒロシマ─50年後の空洞と重さ』p.3)。
それから70年あまり、長らくこの書は中公文庫版で親しまれてきましたが、少し体裁を変えた下の平和文庫版は、現在も新刊で入手できます。
今日は、被団協のノーベル賞受賞を記念して、小倉豊文氏の被爆体験や宮沢賢治との関わりについて、振り返ってみたいと思います。
「雁の童子」というお話は、「父と子の別離」という問題を、大きなテーマとしているように思われます。
物語の終盤で、童子とその養父である須利耶圭は、発掘された遺跡に向かいながら、次のような会話をかわします。
須利耶さまが歩きながら、何気なく云はれますには、
(どうだ、今日の空の碧いことは、お前がたの年は、丁度今あのそらへ飛びあがらうとして羽をばたばた云はせてゐるやうなものだ。)
童子が大へんに沈んで答へられました。
(お父さん、私はお父さんとはなれてどこへも行きたくありません。)
須利耶さまはお笑ひになりました。
(勿論だ。この人の大きな旅では、自分だけひとり遠い光の空へ飛び去ることはいけないのだ。)
(いゝえ、お父さん。私はどこへも行きたくありません。そして誰もどこへも行かないでいいのでせうか。)とかう云ふ不思議なお尋ねでございます。
(誰もどこへも行かないでいゝかってどう云ふことだ。)
(誰もね、ひとりで離れてどこへも行かないでいゝのでせうか。)
(うん。それは行かないでいゝだらう。)と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯うお答へでした。
先日花巻で行われた「宮沢賢治研究発表会」において、鈴木健司さんが「「雁の童子」論 ─ミーラン第3、5寺壁画と絡めて─」という発表をされました。この中で鈴木さんは、「雁の童子」の終わり近くで、童子が須利耶圭に対して言う「私はあなたの子です」との言葉について、
① 雁の童子は前々世において、絵師であった須利耶圭の実の子だと言った
② 雁の童子は現世における育ての親である須利耶圭に対し、あなたの子と言った
という、二種類の解釈の可能性を指摘されました。
①であれば、現世で雁の童子の養父である須利耶圭は、過去世においては実父だったということになるのに対して、②であれば、童子は須利耶圭が現世で養父であるということを、あらためて言ったにすぎない、ということになります。
今日はこの問題について、考えてみたいと思います。
ところでその考察のためには、この物語の中で雁の童子や須利耶圭が輪廻転生を繰り返している経過がけっこう複雑そうですので、その過程の整理から行ってみます。
今年も、9月21日の賢治祭に続いて、9月22日には宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式、賢治学会定期総会、宮沢賢治学会イーハトーブセンター功労賞贈呈式、参加者交流・懇親会、9月23日には研究発表会とエクスカーションという、一連の行事が行われました。
私は、9月21日の夜遅くに花巻に着いて、22日、23日と参加してきました。
宮沢賢治の父政次郎は、若い頃から浄土真宗の篤信家で、自ら大量の仏教書を買い求めて読破するだけでなく、花巻仏教会の幹事役となって、夏期講習会には村上専精、近角常観、島地大等、暁烏敏など、当時の浄土真宗学僧の錚々たるメンバーを招聘し、人々とともに研鑽を深めていました。また、宮沢家の菩提寺である安浄寺(真宗大谷派)では、檀家総代も務めていました。
このような父の薫陶のもと、賢治も幼い頃から浄土真宗の仏典に親しみ、物心つくと「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦して親戚を驚かせ、中学4年時に父にあてた手紙では、「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候〔中略〕念仏も唱へ居り候。仏の御前には命をも落すべき準備充分に候」と、熱い信仰を吐露しています。
ところが、この賢治が青年期になると、決然として浄土真宗と袂を分かち、法華経および日蓮を熱烈に尊崇するようになります。そして、父親と連夜の宗教論争を闘わせたのです。
激論の様子は、『新校本全集』年譜篇では次のように記されています。
この9月のNHK「100分de名著」では、能楽師の安田登さんが講師となって、『ウェイリー版・源氏物語』を取り上げられておられます。
もう数年前に訪ねて写真には撮っていたのですが、住田町世田米地区にある「農民芸術概論綱要」碑のページを、「石碑」のコーナーにアップしました。
前回は、宮沢賢治という人には二つの側面があったという観点から、下のような表を作ってみました。
今回考えてみたいのは、賢治自身の中では、この〈賢治A〉と〈賢治B〉の関係は、どうなっていたのだろうかということです。