「日詰の駅のさくらばな」歌碑

「日詰の駅のさくらばな」歌碑

1.テキスト


さくらばな
 日詰の驛のさくらばな
かぜに高鳴り
  こゝろみだれぬ

          大正六年四月
            宮澤 賢治

2.出典

歌稿〔B〕 473

3.建立/除幕日

2010年(平成22年)4月24日 建立/除幕

4.所在地

紫波郡紫波町北日詰八反田28-10 日詰駅前

5.碑について

日詰駅と歌碑 2010年4月、JR東北本線の日詰駅前に、賢治の歌碑ができました。「日詰の駅」が出てくる歌ということで、まさに作品の舞台となった場所に建てられたのです。
 賢治がこの短歌を詠んだのは、1917年(大正6年)の春、盛岡高等農林学校3年の頃です。歌の内容だけからは、これは花巻と盛岡の間を移動する列車の中から見た桜なのか、日詰の駅から降りて見たのか、はっきりしません。
 どのような経緯があったのかはわかりませんが、賢治は日詰の駅で桜の花を見て、何か心に動揺を覚えることがあったということでしょう。

 しかし賢治ファンの方ならご存じのように、この「日詰」という町は、賢治の「初恋の人」と言われる高橋ミネさんという岩手病院の看護婦さんの出身地なのです。そのことを知って歌を読むと、どうしても賢治が入院中に彼女と知り合い別れてから3年後に、また日詰の地で「かの人」のことを思い出して「こゝろみだれ」たのではないかと思ってしまいます。賢治が胡四王山などから日詰の方角に思いをはせつつ詠んだたくさんの短歌、また日詰に農事講演に来た時のことを追憶して晩年に書いた文語詩「水部の線」などのことを思えば、なおさら「日詰」の地名が出てくる作品に対すると、こちらも「こゝろみだれ」てしまいます。
 歌碑の除幕を報ずる「岩手日報」の記事を見ると、最初からこの碑は「賢治の初恋の人=高橋ミネ」説を前提として、「賢治と日詰のかかわりをPRする」目的で作られたことがわかります。
 まあ、観光目的で設置された標識のようなものとは言え、それでも私のような者にとっては、賢治の作品がモニュメントとして誕生するというのは嬉しいものです。上の記事によれば、昔は日詰駅には見事な桜の木があったということですから、この際、その桜並木も再現してもらえたら、もっと雰囲気がでるのに、などと勝手に想像したりします。

 現在の日詰駅には桜はないのですが、文語詩「水部の線」の舞台となった「五郎沼」には、桜が満開でした。

五郎沼の桜

 桜並木の向こう側には松並木がありますが、「水部の線」の元となった「草稿的紙葉群」に、「こゝはたしか五郎沼の岸で/西はあやしく明るくなり/くっきりうかぶ松の脚には・・・」とあり、初期形で「並樹の松を急ぎ来て・・・」とあることに一致します。

五郎沼の桜

五郎沼の桜

 最後の写真は、昭和49~50年頃に撮影された日詰駅の旧駅舎です。この建物は明治23年の開業以来のものだったということですから、賢治が1917年4月に降り立った?通過した?時と、同じだったわけですね。

旧・日詰駅