「宮沢賢治句稿」碑
1.テキスト
宮沢賢治句稿
菊を案じ星に見とるる霜夜かな
斑猫は二客の菊に眠りけり
たそがれてなまめく菊のけはひかな
秋田より菊の隠密はいり候
狼星をうかがふ菊の夜更かな
花はみな四方に贈りて菊日和
水霜をたもちて菊の重さかな
霜降らで屋形の菊も明けにけり
客去りて湯気立つ菊の根もとかな
魚燈して小菊の鉢を陳べけり
菊株の湯気を漂ふ羽虫かな
2.出典
「装景手記ノート」句稿より
3.建立/除幕日
1984年(昭和59年)9月 完成/2003年(平成15年)6月 現在地に建立
4.所在地
花巻市高松 1-1-1 宮沢賢治イーハトーブ館 裏
5.碑について
胡四王山の山頂近くにあって多くの観光客の訪れる「宮沢賢治記念館」は、賢治に関するすべてを集めた壮大なパビリオンであるのに対して、山の南麓にいだかれた「宮沢賢治イーハトーブ館」は、研究用の資料が閲覧できたり、書籍の販売が行われていたり、賢治好きにとってはほっと落ち着くことのできる場所です。
この「イーハトーブ館」の裏手に賢治の句碑があるとは、私もつい最近まで知らなかったのですが、先日何となくこのあたりを散歩していた時に、偶然見つけました。
碑の側面を見ると、下写真のように、「昭和五十九年秋九月/起案 森 荘已池/協賛 熊谷 孝/阿部 年雄」と刻まれています。しかし、「昭和五十九年」というと、このイーハトーブ館がまだ建ってもいない時代のこと、これはどこか別の場所にあった碑が、後年になってこの場所に移されたのでしょうか?
そこでイーハトーブ館の牛崎敏哉さんに、この句碑の由来についてお尋ねすると、この碑はもともと森荘已池氏が企画し、石屋さんに注文していったん出来上がっていたものの、その後のテキスト研究の成果から碑文を修正した方がよいなどと考えられたりしているうちに、そのまま棚上げになっていたものなのだそうです。
その後、1999年に森荘已池氏は亡くなってしまわれ、句碑に関してはその娘さんが遺志を継いで、2001年にもっと立派な「菊花品評会」句碑が近くに完成しました。そうなるとこっちの旧句碑の方は、日の目を見ないままに出番を失ったかとも思えました。
しかし、2003年6月から2004年2月にかけてイーハトーブ館で「森荘已池展」が開かれた時に、この句碑にもお呼びがかかってここに運び込まれ、展示が終わってからも、この場所に建てられているのだそうです。正式に「碑」として建立されたわけではないので、案内もありませんし何の説明も付けられていません。ほんとうに、ひっそりと立っているのです。
さて碑文を見ると、上の11句のうち、第1句「菊を案じ~」、第8句「霜降らで~」、第9句「客去りて~」の3句は、『【新】校本宮澤賢治全集』第六巻「句稿」の「本文篇」には掲載されておらず、また全集本文では第2句の「二客の」は「二席の」に、第10句の「小菊の鉢を陳べけり」は「あしたの菊を陳べけり」になっています。
いくつかの句が全集の「本文篇」に採用されていないのは、賢治の草稿でこれらの作品に×印が付けられていたためですが、詩や短歌の場合には、作者が×印を付けていても(あるいは消しゴムで消していてさえも!)しっかりと本文に載せているのに、俳句の場合には何か違う編集原理があるようです。
ところで賢治が、このようにたくさんまとめて「菊」を詠んだ俳句を作った事情として、『筑摩四二年版全集』の後記には、次のようなことが書いてあります。
「菊」の句は昭和七年に花巻で開かれた菊花品評会に出陳された花に短冊を下げ、またその短冊を賞としたいという「秋香会」の人々の依頼によってつくられた。その練習のために障子紙を短冊に裂いたものと、美濃紙を短冊の形に切ったものに、筆で書かれたものが数枚残っていただけで、短冊に書くことは実現しなかった。
右の写真が、この時に賢治が「練習」したと思われる、「障子紙を短冊に裂いたもの」に書かれた句です。「風耿」というのが、賢治の俳号ですね。
しかしこの小さな句碑も、ほとんど誰にも見られずに置いておくには、よほどもったいない感じのするものです。もしもイーハトーブ館を訪ねられることがあれば、入口へ向かうアプローチの右手にある水路を渡って、裏手の方にまわってみて下さい。
「経埋ムベキ山」第一番の旧天王山(下写真で碑の右横)を背景として、この碑を見ることができます。