「島地大等」歌碑
1.テキスト
本堂の
高座に島地大等の
ひとみに映る
黄なる薄明 賢治
遠藤助蔵殿 寄贈
平成十八年十二月三日
2.出典
歌稿〔B〕255a256
3.建立/除幕日
2006年(平成18年)12月3日 建立
4.所在地
盛岡市北山1丁目4-5 願教寺境内
5.碑について
島地大等(1875-1927)は、明治末から大正時代に活躍した、浄土真宗本願寺派の僧・仏教学者です。
西本願寺大学林高等科(現・龍谷大学)を終えた後、インド・中国の仏教史蹟を調査、さらに比叡山や高野山にて天台・真言の古蔵資料の研究もしています。東京帝国大学、曹洞宗大学(現・駒澤大学)、日蓮宗大学(現・大正大学)、東洋大学などで教鞭を執っており、浄土真宗だけでなく、当時の日本の仏教界全体を代表する学僧だったと言えるでしょう。
この島地大等は、義父の黙雷の後を継いで盛岡市北山の願教寺の住職に就いていましたから、岩手の人々にとっては身近な存在でした。
賢治が、初めて島地大等の謦咳に接したのは、盛岡中学3年の1911年(明治44年)8月4日から10日、大沢温泉で開かれた「夏期仏教講習会」の時だったと思われます。「「文語詩篇」ノート」には、この年8月の項に、「島地大等 白百合ノ花 海軍少佐」とのメモがあります。
その後も賢治は島地大等に惹かれるところがあったのか、1913年(大正2年)10月には願教寺で開かれた「報恩講」に出席して、やはり大等師の法話を聴いたようです(「「東京」ノート」の「五年二学キ」の項に、「報恩講 島地大等」の記載)。
さらに、盛岡高等農林学校入学後も1915年(大正4年)、1年生の8月には願教寺で1週間にわたり早朝5時から7時まで行われた「夏期仏教講習会」に出席し、「歎異鈔法話」を聴いています(河上和吉「賢治君の学生時代」:川原編『周辺』)。
上記の短歌255a256は、「歌稿〔B〕」の「大正四年四月」の章に入っており、この次の章は「大正五年三月より」となっていますから、上に挙げた賢治の島地大等聴講歴からすると、1915年(大正4年)8月早朝の法話を聴講した際に、詠まれたものと思われます。
下の写真は、願教寺の本堂です。大等の法話の際には、ここに数百人もの聴講者が集まったと言われています。
歌碑の短歌では、冒頭の写真のように大きく澄んだ島地大等の瞳に、夏の早朝の薄明が反射して光っています。これは、今まさに法話が始まろうとして、皆が固唾をのんでいる瞬間でしょうか。
情緒的な言葉を廃した、「写真的」な一首です。
かっと目を見開いた島地大等にも、彼を見つめる賢治にも、緊張感がみなぎっています。