来週10月26日(日)に岩手県大槌町で、「宮沢賢治三陸旅の謎 in 大槌」というイベントが開催されます。
「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の(諸)主義」の項に、次のような一節があります。
芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する
人生の各時期における芸術の位置づけを、簡潔に三つにまとめていますが、賢治の芸術観や人生観もうかがわれるようで、興味深いです。
ここでは、「芸術のための芸術」、「人生のための芸術」、「芸術としての人生」というあり方が、それぞれ少年期、青年期、老年期に対応させられていますが、これらは各々具体的にはどういうことなのでしょうか。
詩は決して完成されることはない、ただ見切りを付けられるだけだ。
(Un poème n'est jamais fini, seulement abandonné.)(ポール・ヴァレリー「『海辺の墓地』について」)
フランスの詩人・思想家ポール・ヴァレリー(1871-1945)の上記の言葉を見て、宮沢賢治のことを連想しました。
賢治は死ぬまで飽くことなく自分の詩の推敲を続けましたが、それは未発表の作品のみならず、既に出版した『春と修羅』にも及んでいて、その所蔵本や友人たちへの寄贈本には、様々な手入れが加えられていました。
彼の詩はまるで、いつまでも果てしない成長と変化を続ける、生き物たちのようでもあります。
「永久の未完成これ完成である」という彼の言葉も、作品というものは、語の本来の意味では「未完成」が当たり前なのだ、と言っているようにも受け取れます。
1925年1月三陸旅行中の「暁穹への嫉妬」は、夜空に光る土星への恋心と、その星影が夜明けとともに溶け去ってしまう失意を歌った作品です。
暁穹への嫉妬
一九二五、一、六、薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかゞやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かさうとするあけがたのそら
さっきはみちは渚をつたひ
波もねむたくゆれてゐたとき
星はあやしく澄みわたり
過冷な天の水そこで
青い合図をいくたびいくつも投げてゐた
それなのにいま
(ところがあいつはまん円なもんで
リングもあれば月も七っつもってゐる
第一あんなもの生きてもゐないし
まあ行って見ろごそごそだぞ)と
草刈が云ったとしても
ぼくがあいつを恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変らない
変らないどこかそんなことなど云はれると
いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる
……雪をかぶったはひびゃくしんと
百の岬がいま明ける
万葉風の青海原よ……
滅びる鳥の種族のやうに
星はもいちどひるがへる
この日、賢治はおそらく夜明け前に八戸線の種市駅で下車し、そこから厳冬の三陸海岸を、徒歩で南下しました。遙か行く手に輝く星に何度も目をやりながら、寒さをこらえつつ歩いたのでしょう。心細い一人旅を導くように瞬く星を眺めるうちに、いつしか恋心が芽生えたのでしょうか。
3行目にあるその「清麗なサファイア風の惑星」が、12行目では「リングもあれば…」と描写されていることから、確かにこれが土星であることがわかります。
加倉井厚夫さんによる天体シミュレーション「「暁穹への嫉妬」の創作」によれば、実際この日の夜明け頃、土星は南南東の空に見えていたのです。
ところで、加倉井さんも上記ページで指摘しておられるように、1925年の時点では、土星の衛星は9個あることが知られていたはずです。いつも科学知識を最先端にアップデートしていたはずの賢治が、ここで「月も七っつ」と書いているのは、不思議なことです。
そこで今日は、明治以降の文献に出てくる土星の衛星の数について、調べてみました。
今日9月21日は、宮沢賢治忌です。
例年、この日が秋分の日を含めた連休に当たっている場合は、花巻の「賢治祭」や関連行事に参加するために、岩手県方面に出かけますし、残念ながら平日であれば、仕事のためにどこにも行くことはできません。
一方、時々ある「9月21日は休日だが、連休ではない」という年には、日帰りで行ける比叡山延暦寺の「賢治忌法要」に、参加させていただきます。
今年はちょうどそういう年で、さらに記念講演が信時哲郎さんだったので、朝から比叡山に行って来ました。

賢治忌法要祭壇:後方にかすかに見えるのは賢治の「根本中堂」歌碑
「葱嶺先生の散歩」(「春と修羅 第二集補遺」)の中の、「地面行歩にしたがって/小さい歪みをつくる」という表現の意味が、以前から気になっていました。
葱嶺先生の散歩
気圧が高くなったので
昨日固態の水銀ほど
乱れた雲を弾いてゐた
地平の青い膨らみも
徐々に平位を復するらしい
しかも国土の質たるや
それが瑠璃から成るにもせよ
弾性なきを尚ばず
地面行歩に従って
小さい歪みをつくること
あたかもよろしき凝膠なるごとき
これ上代の天竺と
やがては西域諸国に於ける
永い夢でもあったのである
〔後略〕
この部分は、先駆形の「亜細亜学者の散策」(「春と修羅 第二集」)では、「地面が踏みに従って/小さい歪みをなす」となっていて、いずれも地面が「凝膠」でできているような「弾性」があるために、「地面を踏んだら、その箇所が凹む」ということのようです。
昔の天竺や西域の人々が、こんな「ぶよぶよ」した感じの地面を「永い夢」としていたというのは、いったいどういうことなのだろうと不思議に思っていたのですが、最近これと関連しているかと思われる表現に、遭遇しました。
来たる9月14日(日)に、岩手県下閉伊郡普代村において、文化講演会「詩と歌でつながる、ふだいと百年前の賢治の世界」が開かれます。
当日は、私が「百年前、賢治は三陸で何を思ったか─1925年三陸旅行中の作品を読む─」と題した講演をさせていただき、地元の「てぼかい合唱団」によって、合唱曲「発動機船 一」のお披露目も行われます。
下のチラシは、クリックしていただくと別ウィンドウで拡大表示されます。
今日は、先月の宮沢賢治学会夏季セミナー「賢治文学の奏でるうた」で使用したスライドを、いくつか紹介させていただきます。
私が担当した基調報告「宮沢賢治と音楽」では、(1)「賢治の音楽体験と歌曲創作」、(2)「賢治作品における「語り」と「歌」の連続性」、という主に二つの話題について、お話をしました。

1.ヒデリノトキ
今年の夏は、日本最高気温の記録が二度も更新されるなど、全国的に未曾有の猛暑となっていますが、実は盛岡市の最高気温も、今年101年ぶりに「史上タイ記録」が観測されました。
これまで盛岡市の最高気温の記録は、1924年7月12日に観測された「37.2℃」だったのですが、先日8月3日にも、同じ「37.2℃」を記録したのです。
下に、気象庁のサイトをもとにして、盛岡市の最高気温の歴代5位までを、グラフにしてみました。5位までのうち3つが今年の記録で、いかに今年が猛暑かということがわかりますが、しかしその一方で、101年間首位を守っている「1924年」という年も、相当なものではないでしょうか。
盛岡市最高気温ベスト5
まだ「地球温暖化」などという概念さえなかった101年も昔にあって、今年の暑さと同気温を記録した1924年とは、いったいどんな年だったのでしょうか。
盛岡駅からほど近く、北上川に架かる開運橋の東のたもとに、「開運橋の歴史」と題された説明板が立てられています。
その冒頭には、賢治の下記の短歌と説明が記されています。
そら青く
開うんばしの
せとものの
らむぷゆかしき
冬をもたらす宮沢賢治
この短歌は宮沢賢治が二
代目開運橋の袂に設置さ
れた瀬戸物製のランプを
眺め詠んだものです。