二人の賢治と父と祖父

 生前の賢治に関する様々な資料を読んでいて思うのは、宮沢賢治という人には、対照的な二つの側面があったようだということです。

 一つは、謙虚で、禁欲的で、自己抑制が強くておとなしい、優等生的な側面です。一般的に宮沢賢治というと、こういうイメージを抱いている方が多いのではないでしょうか。
 しかし賢治には、おもに親しい人に見せていた、もう一つの側面がありました。彼はある時は、ハイテンションなお調子者にになって、えらく大仰なことを言ったり、周囲を驚かすようなことを仕出かす、トリックスターのような人でもあったのです。

 たとえば次妹のシゲは、このような賢治の二つの側面について、次のように語っています。

 兄さんは九月東京から帰ってから十二月に花巻農学校に就職しましたが、先生としての仕事は、たやすいらしく、たのしそうにやっていました。としさんの病床のある部屋で、その日見聞きしたことを、おもしろおかしくして、みんなを笑わせました。おなかが痛くなるくらい笑わせられ、苦しくなって、「やめてやめて」と言わなければなりませんでした。
 こういうことは、お父さんが外出中のことで、お父さんが家にいると、兄さんは借りてきた猫のようでした。家の中を歩くのでも、お父さんのいる居間などは、少し半身にかまえて背をかがめて、少し手を前に出すような格好で歩いていました。

(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.227)

 ここで、この「借りてきた猫」のように大人しくかしこまっている方の賢治を〈賢治A〉、面白おかしい話をして家族を笑いの渦に巻き込む方の賢治を〈賢治B〉と呼ぶことにしてみます。

 〈賢治A〉は、たとえば「〔雨ニモマケズ〕」に描かれているような、謙虚で控えめな人間像です。

慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

 もちろんこれは、賢治が自らの願いを綴った文章ですが、このたたずまいがほぼ現実の賢治の姿でもあったことは、彼を知る多くの人が伝えています。
 ここでは、「慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」とか、「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ」というのが、まさに謙虚で禁欲的な様子を表しています。「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」という箇所の、「四合」という米の量は現代の食生活からすると多く感じられるものの、献立内容はあくまで質素なものです。賢治は、ある時期からは菜食主義に徹し、羅須地人協会時代には非常に粗末なものしか食べずに体調を崩してしまいましたが、「粗食」というのも〈賢治A〉の一つの特徴のように思われます。

 一方、〈賢治B〉が最も早い時期に確認できるのは、盛岡中学2年の時に親友藤原健次郎にあてた手紙です。

僕は先頃一週間ばかり大沢に行った。大事件は時に起ったね。
どうも僕はいたづらしすぎて困るんだ。大沢はポンプ仕掛で湯を上に汲上げてそれから湯坪に落す。所でそのポンプは何で動くったら水車だね。更にその水車は何で動くったら山の上から流れて来る巾三尺ばかりの水流なんだ。
その水流が二に分れる 一は水車に一は湯坪に。つまり湯があまり熱いとき入れるんだね。
そこにとめがかってある。
永らく流れないものだから蛙の死んだのや蛇のむきがらなどがその湯坪に入る水の道にある。一つも水が湯坪に行ってない。水車に行ってるゐる。
乃公考へたね。そこでそのとめを取った。所が又本のやうにならない。水はみんな湯坪に行った。水車は留った 湯はみな湯をためてる所から湧き上るのでみなあふれ出る。そして川に入る。川には多くの人が水を泳いでゐる。僕逃げた。後で聞くと湯坪には巡査君湯主と共に男女混浴はいかんなんて叱ってゐる上から水が、そら熱いとき上から落つるやうになってゐるとひから三尺立方というやつがどんどう落つる 湯は留まる。あたら真白の官服も湯や水にはれられてごぢゃごぢゃになった。浴場には又東京から来たハイカラ君なども居たがびっくりして湯にもぐったさうだ。
水は留らずますます出る 湯坪湯坪ぢゃない水坪になった。
も一組驚いたやつらがある 川に泳いでゐる人たちだ 泳いでゐる中川の水は生ぬるい所がある。熱い所がある。
こりゃ川から湯が湧き始めたなんてさわいでやがらあ。
後に湯坪に行って見ると蛇のむけがら蛙の死がい。泥水。石ころ。下駄片方。いやさんたんたる様だぁね。
浴客はみなかけつける。
火事のやうだ。面白くおっかなかったねー。
巡査君には宿主があやまってゐた。
家の人と行かないと之れだからいゝ。その翌々夜自炊してゐる。曾ってクラスメートであったやつら五六人の気が食はんので竜ど水で水をその浴室から出て来るのに山の上から水をぶっかけたり、その夜一時頃阿部末さんと二人で戸をたたいて目をさまさせたり目に合せた。

(藤原健次郎あて書簡0a, 1910年9月19日)

 賢治の悪戯によって、温泉では上を下への大騒ぎになったようですが、「どうも僕はいたづらしすぎて困るんだ」との言葉からすると、賢治がこういうことを仕出かすのは、稀なことではなかったようです。そして、「家の人と行かないと之れだからいゝ」というのですから、やはり父親がいない時に、この〈賢治B〉は出現するようです。

 中学4年の時には、寄宿舎の舎監排斥事件で「黒幕参謀」として指揮をとり(『新校本全集』年譜篇p.82)、退寮処分になっていますが、これも〈賢治B〉のなせる業でしょう。

 また盛岡高等農林学校では、修学旅行中のエピソードについて、同級生の大谷良之が書き残しています。

箱根街道に入る少し手前に来た時、一杯飯屋の縄暖簾をくぐつてサツサと中に入つてモツキリ酒を注文したのが宮沢君であつた。他の連中はアツと驚いたもののグツと一杯やつて店を出た。左折して箱根八里の山道を登り始めたのであるが、新街道では趣がないから旧街道を行こうということになつて、丸い玉石を敷きつめた石畳の旧街道を馬鹿話をしたり、カチユーシヤを歌つたり弥次喜多気分で登つて行つた。関所跡も近づいて土地も広く開け畑地が右側に見える所にさしかかつた。「関所跡まではどれ位ありますか」と農夫に聞いたところ「そうじやのー、あと二里あるで」と返答があつた。所が大きな声で「馬鹿野郎、嘘つくなツ」と宮沢君が叫んだ。私は農夫が怒つて追いかけて来はしないかと恐ろしかつたが、彼は平気な顔をしておる。あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が、あんなに叫んだのは彼のあの鋭どい感覚で農夫が大嘘をついたのを見破り、純情の彼としては我慢できなかつたのであろう。

(川原仁左エ門編著『宮沢賢治とその周辺』pp.125-126)

 これは1916年3月のことですが、当時まだ未成年(19歳)の賢治が、さっと縄のれんをくぐってモッキリ酒をグイッと引っかけるという意外な行動に、同級生たちもびっくりしています。さらにその後、関所跡までの道のりを教えてくれた人に対して、「馬鹿野郎!」と怒鳴ったというのも驚きです。
 大谷が、「あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼」と書いていることからすると、学校でも普段は〈賢治A〉で通していて、こういう大胆な面を見せることは、あまりなかったのでしょう。やはりこれも、親から遠く離れて旅行中という状況によるものかと思われます。

 大人になって教師をするようになると、さすがに上記のような悪行はしなくなりますが、熱心に学校劇に取り組んでいた際の次のような様子も、ハイテンションで才気煥発な〈賢治B〉の姿を、垣間見せてくれます。1924年8月に、一般の人々も集めて学校で「田園劇」を上演した晩の様子です。

 この夜、賢治はまるで花婿のように上気して、白い手袋を脱いだり、はめたり、あっちこっちかけ回りながら、演出や効果を命令した。
 劇が終わると、観客は帰りかけた。もう大分夜も更けていた。なかには、まだ去りかねて、ぼんやり座って考えている人もあった。
 賢治は、えがった、えがった。見物の人たちは、みんなひどくたまげて行ったんちゃ。東京に出てやろう。もう少し練習せばいいな。と嬉しそうに話して笑った。
 上演に要した衣装、小道具、大道具、背景、その他一切の費用は自費であった。劇が終わるとそこら辺をごろごろころがって喜んだと平来作はいっている。
 花巻農学校で田園劇をやったこと自体、当時の花巻では、途方もなく珍しいことであった。劇の終わった夜、──舞台に使った道具のたぐいを全部校庭に持ち出して、火をつけたのだった。えんえんと火は燃えた。むしろ、ときに透明とも見えるカバ色の火の回りを、賢治とその生徒たちは、ぐるぐる回って踊った。
 畠山校長は火災にでもなってはと心配したと後日語っている。それほど火は赤々と燃え、生徒の身も心もまた青春の火と燃えたのであった。

(佐藤成編『証言 宮澤賢治先生』p.374)

 劇の演出をするのに、わざわざ白い手袋をはめてやるというハイカラ趣味は、控えめで目立たない〈賢治A〉とは対照的ですし、嬉しくて地面をごろごろ転がったとか、舞台道具に火をつけて燃やし、その回りで狂喜乱舞したというのも、何とも刹那的で享楽的な姿です。悪さをしているわけではありませんが、校長を心配させるほどには、羽目を外しています。
 そして、このような奔放さがあったからこそ、他の教師は誰もやったこともないような、「当時の花巻では途方もなく珍しいこと」を、実行できたわけです。

 この例に見るように、〈賢治B〉は演劇など芸術的な活動に親和性があるようで、春画も含めた浮世絵を大量に集めていたとか、地元のレコード店が東京本社から表彰されるほどクラシックレコードを蒐集していた等の性癖も、こちらの側面の表れと考えてよいでしょう。

 食事に関しては、先に「〔雨ニモマケズ〕」で触れたように、〈賢治A〉は粗食を旨としていたようで、ある時期以降は菜食主義に徹し、羅須地人協会時代には母親がわざわざ家から持って来てくれた手作り料理も、受け取らないほどでした。
 しかしその一方で、教師時代の賢治は、ちょくちょく高級レストランに行ったり、蕎麦屋では「天ぷら蕎麦とサイダー」という、当時にしてはかなり贅沢なセットを好んで食べていたりもしたのです。
 やはり教師時代の1923年1月には、東京上野で弟清六と一緒に料理屋に入り、「なんでもみつくろってもってきてください」と太っ腹な注文をして、サザエの壺焼きが大皿に盛って出されると、「これはとられるかな」と二人で笑ったという逸話もあります(『新校本全集』年譜篇p.251)。
 こういう大胆なところは〈賢治B〉と言えるでしょうし、こちらの側面には結構「美食家」の傾向もあったのではないかと思われます。

 このように、賢治には二つの側面があったという視点に立ってみると、その作品にも、同様の二傾向を見ることができるように思います。
 そこで試みに、下のような表を作ってみました。

特徴 象徴的作品
賢治A 謙虚・慎重
禁欲的
自己抑制的・自責的
内省的
献身的
優等生的
粗食
宗教への親和性
恋と病熱
春と修羅
竹と楢
〔雨ニモマケズ〕
グスコーブドリの伝記
賢治B ハイテンション
自由奔放・享楽的
お調子者・ひょうきん者
行動的
万能感
トリックスター的
美食
芸術への親和性
真空溶媒
東岩手火山
楢ノ木大学士の野宿
毒もみの好きな署長さん
〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕

 『春と修羅』に収められている「恋と病熱」「春と修羅」「竹と楢」などは、いずれも禁欲的で、ひたすら自己のあり方を問い詰めています。これは、上述の〈賢治A〉の姿だと言えるでしょう。
 これに対して、同じ『春と修羅』でも「真空溶媒」では、語り手は徹頭徹尾ハイテンションで、調子に乗って戯けたことを言い続け、一種のナンセンス文学のようになっています。「東岩手火山」では、作者はそこまで突拍子もないことは言いませんが、「私は気圏オペラの役者です」などと浮かれた調子で、やはり多弁に語り続けます。「気圏オペラの役者」という自称は、こういう賢治の芝居がかった側面が、やはり演劇と親和性があることを象徴しているのではないでしょうか。

 童話では、「楢ノ木大学士の野宿」に出てくる大学士は、賢治自身を思わせるような鉱物の専門家ですが、依頼人のお客を前に「葉巻を横にくはへ、雲母紙を張った天井を、斜めに見上げて聴いてゐた」という偉そうな態度で、「僕は実際、一ぺんさがしに出かけたら、きっともう足が宝石のある所へ向くんだよ。そして宝石のある山へ行くと、奇体に足が動かない。直覚だねえ。」などとうそぶき、明らかに自信過剰な様子です。依頼の蛋白石を見つけられずに帰っても、少しも悪びれる様子はなく、やはり「葉巻を横にくはへ 雲母紙を張った天井を 斜めに見ながらにやっと笑ふ」という結末です。
 読者は、この高慢な大学士をどうとらえたらよいのか迷わされるところですが、大学士が野宿をして周囲の岩頸や鉱物が話す声を聞いたり、恐竜に出会ったりするところは、野山を歩きまわっていた賢治その人の体験や空想をもとにしており、この大学士は賢治自身でもあるのです。
 すなわちこの主人公は、謙虚な優等生とは対極にある、〈賢治B〉的な側面を表していると言えるでしょう。

 また「毒もみの好きな署長さん」の警察署長は、町民のことを思ういい人のようでありながら、どうしても毒もみ漁の快楽を我慢しきれず、罪を犯して死刑の裁きを受けてしまいます。そして最後になっても、自分の罪を悔いるどころか、「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」とのたまって、町の人々を感服させてしまいます。
 この物語も、作者はいったい何を言いたかったのだろうと思わせる不思議なお話ですが、上述のような賢治A/賢治Bという視点から見れば、世間のルールとか、さらには生死などという境界線も超越するような、どうしようもない喜びというものがこの世には存在するのだという、〈賢治B〉的な感覚が吐露されているように感じられます。

 「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」も、これまた破天荒なナンセンスが次々と展開していく物語です。主人公のネネムは、どんどん出世を重ねて「世界裁判長」にまで昇りつめ、そこでも名判決で賞賛を集めて、まさに万能感に満たされます。謙遜や自己抑制とは正反対の、〈賢治B〉的な人生です。
 ここで、ネネムの特性として注目しておきたいことの一つは、彼は一般の人には許されていない「藁のオムレツ」というばけもの界で最高の御馳走を、食べ飽きるほど食べる美食家だったということです。そしてもう一つは、最後の場面で「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」と訳の分からない歌を唱いながら乱舞したように、ネネムは歌舞音曲の世界にも親しんでいたということです。
 すなわちネネムも、上の表で〈賢治B〉の特徴として挙げた、「美食」や「芸術への親和性」に通ずる面を持っていたのです。

 一方、「グスコーブドリの伝記」は、「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」を晩年になって換骨奪胎した作品ですが、物語の出発点は共通するものの、主人公のブドリは真面目で献身的で、最後は皆の幸せのために自ら犠牲になるという、ネネムとは対照的な、〈賢治A〉的生涯をたどります。
 これらは、ネガとポジのような関係にある二つの物語です。

 ここで、このような〈賢治A〉と〈賢治B〉という二側面の由来について、考えてみたいと思います。
 妹シゲが冒頭の引用で語っていたように、家に父がいない時には〈賢治B〉が皆に面白おかしい話を聞かせ、父がいる時には〈賢治A〉になるという出現のパターンには、特に注目すべきでしょう。
 これを素直に解釈すると、賢治は本来は〈賢治B〉の性質を持っていたけれども、父親からの感化・抑圧や、賢治の自発的な父からの取り込みによって、〈賢治A〉という生き方を身に付けていったのではないか、という可能性が考えられます。

 たとえば、〈賢治A〉は宗教への親和性が強いと思われますが、そこには父親が仏教の篤信家であったことが大きく作用したと思われ、ここにも〈賢治A〉への父親の影響が、具体的に見てとれます。

 また実際、父政次郎自身も、息子賢治について、次のように語っています。

 政次郎は賢治を、早熟児で、仏教を知らなかったら始末におえぬ遊蕩児になったろうといい、また、自由奔放でいつ天空へ飛び去ってしまうかわからないので、この天馬を地上につなぎとめるために手綱をとってきたといい、また、世間で天才だの何だのいわれているのに、うちの者までそんな気になったら増上慢の心はどこまで飛ぶかしれない。せめて自分だけでも手綱になっていなくてはいけないと思った、といっている。

(『新校本宮澤賢治全集』第16巻年譜篇p.21)

 ここで政次郎が言っている、「始末におえぬ遊蕩児」とか、「自由奔放でいつ天空へ飛び去ってしまうかわからない」という賢治の特徴こそ、まさに今回の記事で〈賢治B〉と呼んでいるところの側面にほかなりません。父政次郎としては、〈賢治B〉をそのまま放置しては大変なことになるという、親としての危機感に基づいて、息子を「地上につなぎとめるために手綱をとってきた」のだというのです。
 父の方から見れば、こうした親としてのたゆまぬ努力によって、〈賢治A〉が形成されていったということなのでしょう。

 ただこれを賢治の側から見ると、本来なら天空を駆ける能力を持つ「天馬」であるにもかかわらず、少なくとも父の前では無理やり「地上にとなぎとめ」られていなければならなかったというのは、何とも可哀相な気もします。一般的には、それほどの才能を持つ息子であったならば、父に逆らってでも「天空へ飛び去って」しまい、成功するかどうかはともかくとして、自分独自の道を歩もうとするでしょう。
 しかし賢治は、最後まで父を心から尊敬し続けて、その庇護から抜け出すことはありませんでした。若い頃に父と衝突した一時期はありましたが、それもあくまで「宗教」という枠内での意見の相違にとどまり、結局は父親の掌の内だったのです。

 こうして賢治は、常に父親と共存を続ける必要上、〈賢治A〉と〈賢治B〉という二つの相反する要素を、自分の中に抱え込みながら生きることになったのだと思われます。

 ここで私がもう一つ考えてみたいのは、賢治と政次郎という父子に加えて、さらに一世代上の、祖父の喜助の存在です。
 というのは、伝えられてている喜助の人となりには、「美食」や「芸術への親和性」など、〈賢治B〉と共通する部分が認められるからです。

 三男として生まれた喜助は、分家して豊沢町で商売を始めた時には、本家から資金をごくわずかしか分けてもらえず、相当の苦労をしたということです。性格は、「石に金具を着せたようだと言われるほどの堅物」(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』p.15)だったということで、質素倹約を旨として商売に励み、徐々に財産を蓄えていったということです。

 こんな堅物だったという喜助ですが、余裕が出てくると趣味も楽しむようになります。「義太夫が好きで、朝顔ラッパの蓄音器で越路大夫やら呂昇のレコードを聞き、浄瑠璃本も集めた」(『新校本全集』年譜篇p.8)ということで、「朝顔ラッパの蓄音器」というと後の賢治もクラシック音楽を聴くために愛用していましたから、ここに二人共通の「芸術との親和性」が見てとれるわけです。

 さらに喜助というと、「美食」へのこだわりと、それによって家族を困らせた話が有名です。
 下記は、賢治の母イチが結婚して、婚家に来た当初の話です。

 おじいさんのおさかな好きには、ほんとうに、びっくりさせられました。台所には、たくさんのカメが置いてあって、私などは、呆れるばかりでした。きのこの漬物のカメ。ただの青菜や大根などの漬物のカメ。いかのきりこみのカメ。数の子のカメ。そういうカメが、ずらっと並んでおりました。台所には大きな戸棚のほかに、小さな戸棚があって、その中には、一日かかってトロ火で煮る「イカの桜煮」とか「鮎のかす漬」とか、おいしそうなものがいろいろ入っておりました。「客用」でもあり「自家用」でもありました。
 鮎など一匹二銭ぐらいもする大きなものを、二匹、でっぱりと大皿につけさせて、おじいさんは食べておりました。塩引きが一本八銭ぐらいの時で、鮎などは、何年たっても食べない人もあるのですから、「おごりの頂上」(ぜいたくの極致)でした。

(森荘已池『宮沢賢治の肖像』pp.215-216)

 このような舅の要求に応えるために、結婚当初のイチはしょっちゅう実家に帰っては、実母や出入りの魚屋から、魚のおろし方を習っていたということです。
 そしてこの喜助の美食は、晩年に脳溢血で倒れてからも衰えを知らなかったようです。引き続きイチは語ります。

 そんなおさかな好きで、お酒好きでしたけれども、おじいさんは、病気ひとつしないで、ピンピン丈夫なのは、たぶん毎朝冷水浴をしたせいではなかったかと思います。あとでは脳溢血で倒れて、桜で療養しておりました。そのときも豊沢町の家から、おかずに、おさかなよこさないといってたいへん不平でした。
「おれのもうけた財産だ、おれの好きなもの食わせないというごとあるか」というのでした。お父さんは、「脳溢血に、さかなはよくないから」と、おじいさんがいくらほしがっても、おこっても、いうことをききませんでした。

(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.216)

 ということで、「芸術への親和性」と「美食」という〈賢治B〉の特性は、祖父喜助からの隔世遺伝だった可能性があるわけですが、賢治自身は祖父の「美食」癖に、かなりの反感を覚えていたようでもあります。
 下記は、保阪嘉内にあてた書簡です。

さりながら、(保阪さんの前でだけ人の悪口を云ふのを許して下さい。)酒をのみ、常に絶えず犠牲を求め、魚鳥が心尽しの犠牲のお膳の前に不平に、これを命とも思はずまずいのどうのと云ふ人たちを食はれるものが見てゐたら何と云ふでせうか。もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横たはってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあはれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。

(保阪嘉内あて書簡63, 1918年5月19日)

 これを読むと、本来は隔世遺伝的に美食家の素質も持っていたであろう賢治が、やがて魚や肉を食べるのをやめて菜食主義になっていった要因の一つは、食い道楽の祖父の我が儘や不平不満を見ていたことの、反動だったのかもしれないと思えてきます。
 先ほどの母イチの回顧談にも、口うるさい舅に辟易させられたという雰囲気がにじんでいますが、日本女子大学在学時の妹トシも、祖父の不信心や我が儘をたしなめる手紙を祖父あてに書いており、一家の中には祖父を否定的に見る雰囲気が、共有されていたのかもしれません。

 一般的には、明治大正のこの時代には、家の中で男性と女性の間には歴然とした格差があり、さらに年長者の言うことには普通は逆らえなかったはずですが、孫娘が祖父に正面から物申すことができたのがいったい何故だったのかと考えてみると、これは家長である政次郎が、たとえ自分の父親の言うことであっても、駄目なものは駄目、間違っていることは間違っていると、家族の皆にはっきりと示していたからではないかと推測されます。
 上記の母イチの話で、脳溢血で倒れた後の喜助が「おれのもうけた財産だ、おれの好きなもの食わせないというごとあるか」と強弁しても、政次郎は「脳溢血に、さかなはよくないから」と言い、頑として聞き入れなかったというところに、そのような政次郎の矜恃が表れているように感じるのです。
 喜助が脳溢血で倒れたのは76歳で、当時としては相当の高齢者でした。「どうせもう老い先長くないのだから、食べたいものくらい食べさせてやったらよい」という考えもありえるでしょうが、あくまでも政次郎は、我が父に対しても理屈どおりに筋というものを通そうとする人だったのだと思われ、それが「厳父」と呼ばれた所以かと思います。

 そもそも祖父喜助と父政次郎の二人の間には、宗教をめぐっても子供の教育をめぐっても、大きな価値観の相違がありました。きっと政次郎も若い頃には、頑固な喜助との関係ではさぞ苦労しただろうと思うのですが、政次郎が家長となってからの宮沢家においては、政次郎こそが正義で、喜助は間違っているという明確な共通認識が、家族として固まっていったのではないかと思われます。そして、何かにつけ喜助の言動は、一種の反面教師として家族から見られていたのではないかと思われ、そういう基盤があったからこその、トシから喜助あての手紙だったのではないでしょうか。
 そうだとすれば、賢治も自分の中にある祖父喜助と似た〈賢治B〉的な部分は、どうしても否定していかざるを得なかったということになります。

 また、政次郎が賢治のことを、「仏教を知らなかったら始末におえぬ遊蕩児になったろう」とまで悪く言うのは、ちょっと大袈裟すぎる感じもしますが、実は喜助の長兄で「宮右」の本家を継いだ喜太郎という人は、「生来のお人好しの上、華美に流れ、父の発展させた店を衰えさせ」た(『新校本全集』年譜篇p.7)ということなのです。政次郎から見ると、自分の伯父にあたるこの人は、代々続いた名家を傾かせてしまったまさに「遊蕩児」なわけで、家長としては自分の家にこういう存在が出現することは、何としても食い止めなければならないという使命感があったのかもしれません。
 賢治に対する父親の叱責の例としては、「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんか折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。」と言われたという話が、保阪嘉内あて書簡154(1919年8月14日前後)に記されていて、あらためてやはり怖いお父さんだなと思います。浮世絵蒐集などというのは、父から見ると、「遊蕩児」に陥りかねない危険信号だったのでしょう。

 それにしても賢治という人は、最後までこういう父親を心から尊敬し続けていたようで、臨終の日にやっと、「おれもとうとうおとうさんにほめられたもな」と笑ったというエピソードは、胸に沁みます。
 これを、息子として父親からの真の「自立」を果たせなかったと見る向きもあるかもしれませんが、しかし父のもとから「天空へ飛び去って」しまわずに、葛藤を抱えながらも一緒に共存を続けたからこそ、〈賢治B〉たる類い稀な自由な天性と、父に向き合いつつ形成された〈賢治A〉の宗教性やストイシズムとを自らの坩堝に入れて、複雑な化学反応を起こすことができたのかもしれないとも思ったりします。

 そのおかげで、天才的な閃きと独自の倫理性とが縒り合わされた、あの作品群が生まれたのではないでしょうか。