文明の皮をかぶった野生

 賢治の童話「注文の多い料理店」は、紳士が「イギリスの兵隊のかたち」をしていたり、「RESTAURANT WILDCAT HOUSE」が舞台だったりして、とてもハイカラな雰囲気があふれていますが、物語の骨格には日本の昔話の影響も色濃く感じられます。

 欲深い人間が動物に騙されて酷い目に遭うというパターンは、民話の「狐に化かされる話」と同じですし、また最近目にした秋田県の民話「またぎの犬」は、物語の設定などにおいて、「注文の多い料理店」と共通する部分がいろいろあります。
 ウェブサイト「民話の部屋」の「またぎの犬」のページによれば、そのあらすじは次のようなものです。

 白い犬を連れた猟師またぎが、深い山奥で日暮れを迎えた。ふと目についた家のきれいな娘が「どうぞ泊まってれ」と言うので、泊めてもらった。翌朝、その家の赤犬が猟師の白犬と喧嘩をして、白犬は殺されてしまった。
 猟師は仕方なく家に帰り、代わりの猟犬を探していたが、むく犬に化ける和尚と出会って犬を殺された話をしたところ、それは化物に違いないということで、一緒に娘の家を訪ねることになった。
 山奥の娘の家に着いて和尚が言うには、赤犬は狒々の化物で、娘は猫の化物だということだった。翌朝になると、やはり赤犬が和尚の化けたむく犬に襲いかかってきたので、むく犬は赤犬を噛み殺した。怒った娘は本性を現して大きな猫になり、むく犬の喉仏に喰いつこうとしたが、猟師は鉄砲で化け猫を撃ち殺した。
 すると、家だと思っていたところには何もなくなり、ただ岩の洞だけがあった。(「またぎの犬」より)

 「白い犬を連れ鉄砲を持った猟師が、山奥の家で犬を殺され、その家の主は化け猫で、自分も危うく殺されそうになったが、連れていた犬に助けられた」という筋書きは、「注文の多い料理店」とかなり共通していますし、舞台となっていた山奥の建物が、ラストで忽然と消滅してしまうという幕切れもそっくりです。
 ちなみに、前述の「またぎの犬」のページでは、このお話を地元の方言による朗読で聴くこともできて、味わい深くてお勧めです。

 賢治が、この秋田の民話そのものを知っていたかどうかはわかりませんが、これに似たような何らかの伝承が、「注文の多い料理店」の発想の根底にあった可能性はあると思います。

 一方、このような古典的な枠組みと対照的に、物語の内容の方は、当時の世相を活き活きと反映させた鋭い風刺が効いています。
 主人公の二人の紳士は、第一次大戦の特需で儲けた新興の「成金」なのでしょう、「すつかりイギリス兵のかたちをして」いるところに、まだ戦争の余塵が感じられます。
 下の画像のような格好だったのでしょうか。

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 成金の習性として、連れてきた猟犬が死んでしまっても、「2,400円の損害」「2,800円の損害」とお金に換算してとらえるだけです。(ちなみに、日本銀行のサイトの企業物価指数で換算すると、1924年の2,400円は現在の132万円、2,800円は154万円くらいになるようです。)
 ただ彼らは、金は持っていても家柄はないため、高級料理店で「貴族とちかづきになる」ことを目論んでいるわけです。

 こういう人間の欲望につけ込んで、山猫たちは罠を仕掛けます。山猫軒には実際いろいろ怪しげなところはあるのですが、紳士たちは一度は疑問に思っても、早く空腹を満たしたいという欲求と、上流階級の仲間入りをしたいという欲望に囚われて、自分の願望に都合の良い解釈ばかりを続けていきます。

「こいつはどうだ、やつぱり世の中はうまくできてるねえ、けふ一日なんぎしたけれど、こんどはこんないゝこともある。このうちは料理店だけれどもたゞでご馳走ちそうするんだぜ。」
「どうもさうらしい。決してご遠慮はありませんといふのはその意味だ。」
……
「どうも変なうちだ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだらう。」
「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなかうさ。」
……
「なかなかはやつてるんだ。こんな山の中で。」
「それあさうだ。見たまへ、東京の大きな料理屋だつて大通りにはすくないだらう」
……
「これはぜんたいどういふんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。
「うん、これはきつと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいとういふことだ。」
……
「作法の厳しいうちだ。きつとよほど偉い人たちが、たびたび来るんだ。」
……
「仕方ない、とらう。たしかによつぽどえらいひとなんだ。奥に来てゐるのは」
……
「はゝあ、何かの料理に電気をつかふと見えるね。金気かなけのものはあぶない。ことにとがつたものはあぶないとう云ふんだらう。」
……
「クリームをぬれといふのはどういふんだ。」
「これはね、外がひじやうに寒いだらう。へやのなかがあんまり暖いとひびがきれるから、その予防なんだ。どうも奥には、よほどえらいひとがきてゐる。こんなとこで、案外ぼくらは、貴族とちかづきになるかも知れないよ。」
……
「この香水はへんに酢くさい。どうしたんだらう。」
「まちがへたんだ。下女が風邪かぜでも引いてまちがへて入れたんだ。」

 このように紳士たちが繰り広げる一連の「希望的解釈」は、山猫からするとその全てに裏の意味があったわけで、最後にオセロゲームのように全部が裏返されると、「食べる」側だったつもりの自分たちまでもが、実は「食べられる」側だったということになります。
 「注文の多い料理店」というお話は、この展開の巧みさこそが真骨頂で、これは数ある賢治の童話の中でも、最も知的に構成された作品と言えるのではないでしょうか。
 賢治の作品では、「なんのことだか、わけのわからないところ」が一つの大きな魅力だと思いますが、これはその反対に、細部に明確な意図が際立っています。

 ところでもしも、細部のみならず、物語全体にも賢治の「明確な意図」が込められているとすれば、その寓意はいったいどういうものでしょうか。
 これについて従来は、「自然(山猫)の側からの文明(紳士たち)に対する批判」という構図で捉えられていたようですが、松田久子氏が「作品研究「注文の多い料理店」(童話)」(『賢治研究』1973.8)において、また田近洵一氏が「童話『注文の多い料理店』研究」(『日本文学』1977.7)において、この物語で山猫は自然を代表しているわけではないということを指摘して以来、紳士と山猫の関係は、より複雑な位相で読まれるようになっているようです。

 それでも、物語の外形としては、「すつかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで」登場する紳士たちが「文明」を象徴していることは明らかですし、〝WILDCAT〟と自ら名乗る山猫はやはり「野生(Wild)」の存在でしょうから、ここに「文明 vs 野生」という対立軸が存在することは、否めないでしょう。

 そこで、この軸に沿って物語を見ていくと、まず冒頭では二人の紳士が、「ぜんたい、こゝらの山はしからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構はないから、早くタンタアーンと、やつて見たいもんだなあ。」などと、野生の存在に対する敵対的な言葉を口にしつつ、ずかずかと山に入ってきます。
 ここで、文明(Civilization)を C、野生(Wild)を W で表し、何らかの攻撃的な働きかけを矢印(→または←)で示すことにしてみます。
 すると、紳士たちの山への侵入は、

C → W

と、表せるでしょう。
 まもなく、紳士の連れてきた犬が、「あんまり山が物凄ものすごいので、その白熊のやうな犬が、二疋いつしよにめまひを起して、しばらくうなつて、それから泡を吐いて死んでしまひました」という情けないことになってしまいます。山に入っただけで倒れてしまうという犬は、文明生活しか知らなかったのでしょう。
 そこでこの顛末は、野生が文明的存在を圧倒したということで、次のようになります。

C ← W

 さらに、物語のクライマックスでは、紳士たちは山猫に食べられそうになって、恐怖で顔がくしゃくしゃになりますが、これは下のように表されます。

C ← W

 すると危機一髪のところで、さっきは死んだと思っていた犬が現れ、山猫を蹴散らして大団円を迎えます。

C → W

 というわけで、上記を最初からもう一度並べると、

C → W :紳士の山への侵入
C ← W :山奥で犬が昏倒
C ← W :山猫が紳士に肉迫
C → W :犬が山猫を追い払う

という風になり、全体として文明と野生は、「おあいこ」のように見えます。

 しかしもう少し考えてみると、「山猫軒」の店構えは野生の猫が作ったことになっていながら、実のところは人間の文明を周到に模倣した装置にほかなりません。
 これは、「文明の皮をかぶった野生」と言うべき存在です。

 また、紳士の連れてきた犬は、一時は死んだと言われていたのに、終盤で「わん、わん、ぐわあ。」と吠えつつ扉を突き破って再登場し、隣の室の暗闇の中で「にやあお、くわあ、ごろごろ。」と唸る山猫と戦い、勝利を収めました。
 この犬たちが当初まとっていた文明的な装いは、深い山に備わる野生の力で剥ぎ取られてしまいましたが、むしろそれによって奧に眠っていた野生が覚醒して、山猫と戦うことができたのではないかと思えます。
 その意味ではこの犬たちも、「文明の皮をかぶった野生」だったのです。

 ということで、この「文明の皮をかぶった野生」を、C(W) と表すことにすると、山猫と犬との戦いは、下のようになります。

C(W) → C(W)

 童話「注文の多い料理店」における本当の戦いは、考えてみると実は上の一つだけなのです。そして、たしかにこれは「自然と文明の戦い」とは言えません。
 それは、「文明の皮をかぶった野生」同士の、いわば同族の戦いなのですが、山猫は自ら意図的に文明を擬態しているのに対し、この犬たちは2万~4万年前に祖先の狼から人間によって家畜化され、さらに現在の飼い主に甘やかされて、文明の皮が肥厚したものでしょう。両者は似た者でありつつも、出自は異なっています。

 それでは、この物語の核にある、「C(W)=文明の皮をかぶった野生」というのは、いったい何の寓意なのでしょうか。
 私としては、これは仏教的には、「文明」を作る〈人間〉と、「野生」の生き物である〈畜生〉との中間に位置する、〈修羅〉なのではないかと思うのです。

 〈修羅〉の典型的な特徴として、相手と争い戦うという好戦的な性質があり、これは山猫や犬の最後の方の行動に表れています。
 さらに〈修羅〉にはもう一つ、「諂曲」という性質もあって、「春と修羅」でも「いちめんのいちめんの諂曲模様」として登場します。これは、「言葉巧みに相手に媚びへつらう」という意味で、山猫がレストランのたくさんの扉に、丁寧な言葉で懇願するように様々な「注文」を書き連ねていたことに相当するように思います。

 振り返れば、松田久子氏も「作品研究「注文の多い料理店」(童話)」(『賢治研究』1973.8)において、次のように山猫の〈修羅〉性について書いておられました。

紳士を見事にからかってみせた猫にも、親分がいて、彼らもやはり、一つの組織の中にきちんと組み込まれていた。また、彼らが菜っ葉を塩でもみ、人間を皿に盛り合わせるやり方は、人間のやり方と寸毫も変わらないではないか。おろかな人間にわなをかけ、今度は、自分達が犬にやられてしまう。猫の世界すなわち修羅の世界であり、そここそが、賢治のいた場所なのだという説も決して無理はないと思われるのである。

 賢治がちょうど平行して書いていた『春と修羅』の理念が、こちらの童話集にも通底していたと、考えることができるのかもしれません。

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「注文の多い料理店」初版本挿絵(新校本全集第十二巻より)