「鹿踊りのはじまり」の共食儀礼

 そのとき西にしのぎらぎらのちぢれたくものあひだから、夕陽ゆふひあかくなゝめにこけ野原のはらそゝぎ、すすきはみんなしろのやうにゆれてひかりました。わたくしがつかれてそこにねむりますと、ざあざあいてゐたかぜが、だんだんひとのことばにきこえ、やがてそれは、いま北上きたかみやまはうや、野原のはらおこなはれてゐた鹿踊しゝおどりの、ほんたうの精神せいしんかたりました。

 「鹿踊りのはじまり」のこの書き出しは、私が賢治の童話の中で最も好きなところの一つです。いきなり「そのとき……」という言葉で物語世界に連れ込まれると、私たちはもう北上の野原にいて、ぎらぎらの雲や赤い夕陽やすすきの白い火に、目が眩みそうになります。

 今日は、この物語で明かされる「鹿踊しゝおどりの、ほんたうの精神せいしん」について、少し思ったところを書いてみます。

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 上の『祭祀と供犠 日本人の自然観・動物観』という著書において民俗学者の中村生雄氏は、人間が神に生贄として動物を捧げる「供犠」という行為について、古代ユダヤ教や古代中国では犠牲獣を解体して焼き尽くすなど、生贄の「破壊」に重点が置かれるのに対して、古代日本では動物を調理して神と人が「共に食べる」こと(=神人共食)を目的としているという違いがあると、論じておられます。そして、前者は神と人との非連続性を強調する一神教的文化を象徴しており、後者は神と人との連続性に基づく多神教的文化を体現しているのではないかと、考察しておられます。

 実際、旧約聖書の「レビ記」に記されている「燔祭」では、子牛や羊は神の前で屠られた後、血は祭壇の周囲に注がれて肉は切り分けられ、頭や脂肪とともに祭壇の薪の上に並べられて、焼き尽くされるのです。神には、その煙と香りのみが捧げられます。
 一方、日本の「神人共食」を今に伝える儀礼として、宮崎県西都市の銀鏡しろみ神社の大祭では、贄棚に猪の頭を十数個も並べて様々な神楽が舞われ、翌日に翁と媼の面を付けた二人が滑稽な仕草で猪猟の様子を演じた後、供えられていた猪の頭と肉を炊き込んだ雑炊が、人々に振る舞われます。神に捧げられた猪の雑炊を食べた人々の体内には、野生の活力が取り込まれ、冬を越すための霊的な力になると信じられているということです。
 また、静岡県の大井川源流にある田代集落では、聖域とされる谷で獲ったヤマメを塩漬けにして腹に粟粥を詰め、諏訪神社で神前に供えた後、直会なおらいで参会者に振る舞われます。

 日本でも、主に狩猟採集を行っていた古代においては、このように動物の生贄を神人共食するという儀礼が広く行われていたようですが、農耕文化が浸透していくに従って、穀物を神に捧げた後に人間もいただくという形に、共食の対象が徐々に置き換えられていきます。

 そのような儀式の代表格と言えるのは、天皇の代替わりに際して行われる「大嘗祭」でしょう。大嘗祭において、天皇は新穀で作られた神饌を天照大神に捧げ、これを神と共食することによって、皇祖神と一体化し天皇霊を身に付けるとされています。

 さらにこのような神人共食儀礼の最も身近な形としては、各家庭における正月のお節料理や雑煮も、実はその元来の意味は、年の初めにあたって食事をまずは「歳神」に捧げ、そのお下がりを人間がいただくというものでした。20221218a.jpg人が神と同じものを共に食することにより、一年にわたる霊力や加護を享受しようとしたのです。
 これが目に見える形で演じられるのは、有名な秋田県の「ナマハゲ」です。大晦日に各戸を訪れるナマハゲに対して、家の主人は食膳と酒を出して迎え、ナマハゲが帰った後でそのお下がりを家族みんなで食べるのです(右写真は石垣悟「民俗行事の中の食」より、ナマハゲに酒食を捧げる主人)。

 つまり、日本古来の信仰として、「神と人が、同じものを共に食することにより一体化する」という考え方があるわけですが、賢治の「鹿踊りのはじまり」においても、よく似た現象が起こっているのではないかと思うのです。ここでは「神と人」ではなくて「鹿と人」ですが……。

 物語では、冒頭に引用した書き出しに続いて、「嘉十」という男が紹介されます。嘉十は膝を痛めたので、西の山の温泉で湯治をするために、足を引きずりながらすすきの野原までやってきて、一休みをします。

 嘉十かじふ芝草しばくさうへに、せなかの荷物にもつをどつかりおろして、とちあわとのだんごをしてべはじめました。すすきはいくむらもいくむらも、はては野原のはらいつぱいのやうに、まつしろひかつてなみをたてました。嘉十かじふはだんごをたべながら、すすきのなかからくろくまつすぐにつてゐる、はんのきのみきをじつにりつぱだとおもひました。
 ところがあんまり一生いつしやうけんめいあるいたあとは、どうもなんだかおなかがいつぱいのやうながするのです。そこで嘉十かじふも、おしまひにとち団子だんごをとちののくらゐのこしました。
「こいづば鹿しかでやべか。それ、鹿しか」と嘉十かじふはひとりごとのやうにつて、それをうめばちさうのしろはなしたきました。それから荷物にもつをまたしよつて、ゆつくりゆつくりあるきだしました。

 ここで嘉十が、食べ残した栃の団子を、黙って捨てていくのではなく、「それ、鹿しか」と声に出して呼びかけたことで、物語は動き始めます。
 少し歩いた嘉十が、休憩場所に手拭いを忘れてきたことに気づいて取りに戻ると、もう鹿たちが来ていたのです。鹿は、栃の団子のまわりをぐるぐる廻りつつ、団子の横にある手拭いのことを、しきりに気にしているようです。

 その時、嘉十に不思議な現象が起こります。

 嘉十かじふはにはかにみゝがきいんとりました。そしてがたがたふるえました。鹿しかどものかぜにゆれる草穂くさぼのやうなもちが、なみになつてつたはつてたのでした。
 嘉十かじふはほんたうにじぶんのみゝうたがひました。それは鹿しかのことばがきこえてきたからです。
「ぢや、おれつてべが。」
「うんにや、あぶないじや。もすこでべ。」
こんなことばもきこえました。
何時いつだがのきつねみだいに口発破くちはつぱなどさかゝつてあ、つまらないもな、たかとち団子だんごなどでよ。」
「そだそだ、まつたぐだ。」
こんなことばもきました。
ぎものだがもれないじやい。」
「うん。ぎものらしどごもあるな。」

 嘉十は、鹿たちの言葉が理解できるようになったのです。これは、鹿に「供え物」をした嘉十の行いの褒賞だったのでしょうか。

 嘉十はこの後、手拭いを警戒する鹿たちのユーモラスなやり取りを見守っていましたが、ついに一匹の勇敢な鹿が手拭いを取り除くことに成功し、鹿たちは大喜びして団子に向かいます。

 鹿しかはそれからみんなばらばらになつて、四方しはうからとちのだんごをかこんであつまりました。
 そしていちばんはじめに手拭てぬぐひすゝんだ鹿しかから、一口ひとくちづつ団子だんごをたべました。六ぴきめの鹿しかは、やつと豆粒まめつぶのくらゐをたべただけです。
 鹿しかはそれからまたになつて、ぐるぐるぐるぐるめぐりあるきました。
 嘉十かじふはもうあんまりよく鹿しかましたので、じぶんまでが鹿しかのやうながして、いまにもとびさうとしましたが、じぶんのおほきながすぐにはいりましたので、やつぱりだめだとおもひながらまたいきをこらしました。

 さてここにおいて、嘉十がかじった栃の団子の残りを、6匹の鹿もそれぞれ食べたのですから、鹿と人の「共食」が成立したわけです。
 この「鹿人共食」の結果、何が起こったのかというと、嘉十は「じぶんまでが鹿しかのやうながして、いまにもとびさうと」したのです。
 つまり、鹿と人との境界線が消滅して、嘉十は鹿と一体化してしまったのです。

 一体化しながらも、何とか嘉十は自分の手を見て人間であることを思い出し、踏みとどまって観察を続けます。
 しかしすでに世界の相貌は変わってしまっており、嘉十はただ「ゆめのやうにそれにとれて」いるしかありません。

 太陽たいやうはこのとき、ちやうどはんのきのこずゑなかほどにかかつて、すこいろにかゞやいてりました。鹿しかのめぐりはまただんだんゆるやかになつて、たがひにせわしくうなづきひ、やがて一れつ太陽たいやういて、それをおがむやうにしてまつすぐにつたのでした。嘉十かじふはもうほんたうにゆめのやうにそれにとれてゐたのです。

 すると鹿たちは、太陽と野原の木や草を讃える美しい歌を、順々に歌っていくのです。

 一ばんみぎはじにたつた鹿しかほそこゑでうたひました。
「はんの
 みどりみぢんのもご
 ぢやらんぢやららんの
 おさんがる。」
 その水晶すゐしやうふえのやうなこゑに、嘉十かじふをつぶつてふるえあがりました。

 その次の鹿ははんの木を、さらに次の鹿は銀色に光るすすきを、という風にあたりの情景が歌われ、最後に六番目の鹿が、小さなうめばちそうを歌います。

 このとき鹿しかはみなくびれてゐましたが、六番目ばんめがにはかにくびをりんとあげてうたひました。
「ぎんがぎがの
 すすぎのそごでそつこりと
 ぐうめばぢの
 どしおえどし。」
 鹿しかはそれからみんな、みぢかくふゑのやうにいてはねあがり、はげしくはげしくまはりました。
 きたからつめたいかぜて、ひゆうとり、はんのはほんたうにくだけたてつかゞみのやうにかゞやき、かちんかちんとがすれあつておとをたてたやうにさへおもはれ、すすきのまでが鹿しかにまぢつて一しよにぐるぐるめぐつてゐるやうにえました。

 ここで鹿たちが謡う歌は、それぞれ方言短歌の形をとっていますが、天に懸かる太陽に始まって、はんの木、すすき、と徐々に視線を下に移し、最後に眼下の小さなうめばちそうが愛でられるという構成で、この野原の秋の夕暮れの風景を、聖なるものへと高めていくかのようです。
 ここでついに感極まってしまった嘉十は、いったんは抑えていた「自分と鹿の一体化」に我を忘れ、鹿たちの方へ飛び出していってしまいます。

 嘉十かじふはもうまつたくじぶんと鹿しかとのちがひをわすれて、
「ホウ、やれ、やれい。」とさけびながらすすきのかげからしました。
 鹿しかはおどろいて一度いちど竿さをのやうにちあがり、それからはやてにかれたのやうに、からだをなゝめにしてしました。ぎんのすすきのなみをわけ、かゞやく夕陽ゆふひながれをみだしてはるかにはるかにげてき、そのとほつたあとのすすきはしづかなみづうみ水脈みをのやうにいつまでもぎらぎらひかつてりました。
 そこで嘉十かじふはちよつとにがわらひをしながら、どろのついてあなのあいた手拭てぬぐひをひろつてじぶんもまた西にしはうあるきはじめたのです。

 つまり、嘉十が栃の団子を鹿に捧げて、同じ一つの食べ物を「共に食べる」という行為をした結果は、鹿の言葉が理解できるようになったこと、そして鹿から見たこの自然の美しさと愛しさを、一緒になって分かち合えたことだったわけです。これは大嘗祭において、天皇が神膳供進と共食儀礼により皇祖神と一体化するということにも匹敵する、素晴らしい効果だったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 賢治の作品世界においては、もともと「人間と動物」とか「人間と自然」の間が境目なく連続している感がありますが、「共食」によってその連続性が、さらに促進されたと言えるかもしれません。

 余談ですが、温泉湯治と鹿に関する伝説は全国にいくつかあるようで、栃木県那須温泉の「鹿の湯」や長野県上田市の「鹿教湯温泉」には、「狩猟の際に射損じた鹿を追っていくと、鹿が傷ついた体を山中の湯で癒していたことから温泉が発見された」という由緒がありますし、三重県菰野町の湯の山温泉も、傷ついた鹿が癒しに来ることから「鹿の湯」とも呼ばれるということです。
 膝を悪くした嘉十も、物語の初めでは「すこしびつこをひきながら、ゆつくりゆつくりあるいてつた」と描写されているのに対して、最後の方では「さけびながらすすきのかげからしました」、また幕切れでも「じぶんもまた西にしはうあるきはじめた」と記されていて、足を引きずっているような様子はありません。俊足の動物である鹿に「一体化」したおかげで、ひょっとしたら温泉に入る前に膝はもうかなり良くなったのかもしれず、これも鹿への供物と共食の恩恵だったのでしょうか。