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「誓願」と「授記」の物語

 「銀河鉄道の夜」の「初期形一」から「初期形三」までの物語のラストは、次のように終わっていました。

「博士ありがたう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ。」
ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集って何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気がするのでした。
 琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。

 この部分は、最終の「第四次稿」になるとなくなってしまうのですが、しかし私は三次稿までの、「何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気がする」という表現が、何とも心に沁みて仕方ありません。

 かけがえのない親友のカムパネルラを失って、ジョバンニが痛切に「かなしい」のはもちろんですが、それでも銀河鉄道の旅を終えた彼の心には、何か「新らしいやうな気」が湧いてきているのです。
 そして読者としては、ジョバンニという少年が、カムパネルラとの思い出や、「きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く」という汽車の中での誓いや、不思議な切符を持って、これからの人生をどう生きていくのだろう、という想像に駆られずにはいられません。

 もしも賢治が、「グスコーブドリの伝記」のように「ジョバンニの伝記」を書いてくれていたら──その後の彼がどんな問題に直面し、どんな行動をとったのかというお話を残してくれていたら──と思うのは、きっと私だけではないでしょう。それほどに、「銀河鉄道の夜」という物語は、読む者の心に深く大きな余韻を残します。
 読者が「続きを期待してしまう」のは、この作品が推敲途中の「未完」の状態であるということだけによるのではなくて、「その後」を期待させたままで幕が閉じられるという、物語そのものの趣向にあるのだと思います。

 さて、私たちがジョバンニの「その後」を想像してみる上で、最も重要なポイントは、彼が「ほんたうにみんなのさひはひのためならば僕のからだなんか百ぺんいてもかまはない」あるいは「きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」という言葉で表される、人々の幸せのためには最大限の献身を行うという大きな「誓い」を立てているところです。
 それからもう一つのポイントは、「九、ジョバンニの切符」の章で明らかにされたように、彼はなぜか「どこでも勝手にあるける通行券」を持っていることです。

 この二つの特徴を備えたジョバンニが、その後どのような行動をとるかということを考えてみると、必然的に導かれる答えは、彼は切符のおかげでこの世界の(あるいは異界も含めて)ありとあらゆるところへ行って、「みんなのほんたうのさいはひ」のために尽力するに違いない、ということです。

 「銀河鉄道の夜」の物語の中で、ジョバンニがこの切符を持っていたことの意味は、これのおかげで本来は死者が乗る銀河鉄道に、彼だけが生きながらにして乗車できて、またこの世に戻って来ることができたことにありました。一方、物語の「その後」のジョバンニにとって「切符所持者」であることは、彼が「みんなのほんたうにさいはひをさがしに行く」という誓いを果たすために、大きな力になるはずです。
 西田良子氏が、「ジョバンニが目ざしたのは、〈あらゆる人の幸せ〉のために、〈十界〉を自由に行き来して、衆生を苦しみから救い、ともに無上道を目ざす〈菩薩的解脱〉だったに違いない」(「銀河鉄道の夜」論:『宮澤賢治論』所収)と述べておられるように、もしもジョバンニがこの誓いを実際に行動に移し、努力を続けて行ったならば、彼はこの時点ですでに「菩薩」である、と言うことができるでしょう。

 そして大乗仏教的には、こうやって衆生のために身を挺して無上道を目ざす者は、いつの日か必ずそこへ至ることができるはずなのです。

 ところで大乗仏教の経典には、仏道の修行をする者が、衆生の救済に向けた誓いを立て(=誓願)、それとともに未来の得道が約束される(=授記)という構成になっているエピソードが、いくつかあります。
 たとえば、釈迦のはるか過去世を描いた「燃灯仏授記」の物語では、釈迦の過去世であるスメーダという青年が、燃灯仏という仏の説法を聞きに行った際に、燃灯仏が泥道で足を汚さないように自分の身を泥の上に横たえ、自らの髪の上を燃灯仏に渡ってもらったということです。燃灯仏に踏み渡られながらスメーダは、「私一人が力を得ても、私一人が迷いを渡ったとしても、それになんの意味があろう。むしろ一切の人々を迷いから渡す人に、自分はなろう」と誓いを立て、そのようなスメーダに対して燃灯仏は、「遠い世にきっとゴータマという覚者になるであろう」と予言しました。

 あるいは、後に阿弥陀仏となる法蔵は、有名な「四十八願」を立て、世自在王仏から未来に必ず仏になると授記されました。
 また弥勒菩薩は、「人天を問わず全ての衆生を慈悲心をもって救済する」いう誓願を立て、釈迦如来から授記されました。法蔵菩薩が阿弥陀如来となったのは十劫もの遙か遠い過去とされている一方、弥勒菩薩が悟りを開いてこの世で救済を始めるのは、56億7千万年後の未来とされていますが。

 いずれにも共通するのは、「誓願」を立てるとともに「授記」が与えられるという、二つの運命のセットです。

 ということで、ジョバンニの「未来」について考えようとすると、彼が大きな誓いを立て、それを実行するための特別な力も与えられているところからして、こういった菩薩や如来が転生する壮大なドラマも、何となく連想してしまうのです。

 彼は、「きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」という誓願を立て、「どこでも勝手にあるける通行券」という特別な授記を得ていたからです。

弥勒菩薩立像
弥勒菩薩立像(東京国立博物館蔵, ウィキメディアコモンズより)