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妙壽寺の「雨ニモマケズ」詩碑

 去る7月17日に、東京都世田谷区北烏山にある「妙壽寺」の、「雨ニモマケズ」詩碑を見学してきました。

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 このお寺のある北烏山2丁目~6丁目あたりには、寺町通を中心として26もの寺院が軒を連ねていて、「烏山寺町」とも呼ばれているそうです。
 京都の寺町は、豊臣秀吉の京都大改造計画によるものでしたが、こちらの寺町は、関東大震災の後に、帝都復興院による復興計画に基づいて、浅草、築地、本所、深川などで被災した寺院が、この地域に移転してきたことに端を発するということです。

 この妙壽寺もそのような寺院の一つで、もとは1631年(寛永8年)に谷中清水町(現台東区谷中町)において「妙感寺」として創建され、1662年(寛文2年)に猿江村(現江東区深川)に移転して「妙壽寺」と改名し、以後260年にわたって同地で多くの檀信徒を集めていましたが、1923年(大正12年)の関東大震災で堂宇の全てを焼失し、この北烏山の地に移転してきたのだそうです。

 妙壽寺の最寄り駅は、京王井の頭線の「久我山」駅で、南口から出ます。國學院久我山高校の生徒さんたちとすれ違いながら南下し、玉川上水を渡って、1.4km(徒歩20分ほど)の道のりでした。

 寺町通に面した山門は、下のように落ち着いた風格があります。

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 この門を入ると、緑の豊かな参道が続いています。

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 この道を少し進むと左手に、美しい黒御影石でできた賢治の詩碑があります。

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 碑文は、賢治が「雨ニモマケズ手帳」に記した自筆文字をそのまま写しとったもので、賢治がこの手帳に記していた「略式十界曼荼羅」も一緒に刻まれています。

 碑の裏面には、「立正安國論進覧 七百五十年記念/宮澤賢治詩碑建立」とあり、日蓮が先の執権北条時頼に、この国家諌暁の書を提出したことの記念に建てられたようです。

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 ところで、「玉川上水」と聞くと、どうしても太宰治を連想してしまったもので、この妙壽寺の詩碑を見た後、JR中央線で三鷹駅まで出てみました。
 三鷹駅の南口から玉川上水に沿って東の方へ、「風の散歩道」と名づけられた小ぎれいな道路が続いています。
 風の散歩道をずっと行くと、井の頭公園やジブリ美術館に出るのですが、その途中で駅から500mほど行ったところに、太宰治の入水の地を示すプレートが設置されています。

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 プレートには、太宰の「乞食学生」の一節で、玉川上水に関する部分が引用されています。
 この一節と、それに続く文章を、下に引用します。

四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ、こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無い。私は立ちどまって、なお、よく見ていたい誘惑を感じたが、自分の、だらしない感傷を恥ずかしく思い、その光るばかりの緑のトンネルを、ちらと見たばかりで、流れに沿うて土堤の上を、のろのろ歩きつづけた。だんだん歩調が早くなる。流れが、私をひきずるのだ。水は幽かに濁りながら、点々と、薄よごれた花びらを浮かべ、音も無く滑り流れている。私は、流れてゆく桜の花びらを、いつのまにか、追いかけているのだ。ばかのように、せっせと歩きつづけているのだ。その一群の花弁はなびらは、のろくなったり、早くなったり、けれども停滞せず、狡猾こうかつに身軽くするする流れてゆく。万助橋まんすけばしを過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死できしなされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。私は、少し疲れた。花びらを追う事を、あきらめて、ゆっくり歩いた。たちまち一群の花びらは、流れて遠のき、きらと陽に白く小さく光って見えなくなった。私は、意味の無い溜息ためいきを、ほっといて、手のひらでひたいの汗を拭き払った時、すぐ足もとで、わあ寒い! という叫び声が。
 私は、もちろん驚いた。尻餅しりもちをつかんばかりに、驚いた。人喰い川を、真白い全裸の少年が泳いでいる。いや、押し流されている。頭を水面に、すっと高く出し、にこにこ笑いながら、わあ寒い、寒いなあ、と言い私のほうを振り向き振り向き、みるみる下流に押し流されて行った。私は、わけもわからず走り出した。大事件だ。あれは、溺死するにきまっている。私は、泳げないが、でも、見ているわけにはいかぬ。私は、いつ死んだって、惜しくないからだである。救えないまでも飛び込み、共に死ななければならぬ。死所を得たというものかも知れぬ、などと、非論理的な愚鈍の事を、きれぎれに考えながら、なりも振りもかまわずに走った。一言でいえば、私は極度に狼狽ろうばいしていたのである。木の根につまずいて顛倒てんとうしそうになっても、にこりともせず、そのまま、つんのめるような姿勢のままで、走りつづけた。いつもは、こんな草原は、へびがいそうな故をもって、絶対に避けて通ることにしているのであるが、いまは蛇に食い附かれたって構わぬ、どうせ直ぐに死ななければならぬからだである、ぜいたくを言って居られぬ。

 引用が長くなってしまいましたが、後半の方で玉川上水を流される人を見た主人公は、自分は泳げないので溺れる人を助けることはできないが、「救えないまでも飛び込み、共に死ななければならぬ」と咄嗟に考えます。この発想は、賢治が短篇「イギリス海岸」に書いている、「もしおぼれる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐた」という考えに、不思議と似ています。
 その奧にある作者の死生観は、おそらく対照的なのでしょうが、人命救助という意味では何の役にも立たないのに、それでも「一緒に死ぬ」ことに意味があるという考えが、共通しているのです。

 そして実際、太宰はこの小説を書いた8年後に、この場所で愛人と「共に死ぬ」ことになるのです。賢治は川で死ぬことはありませんでしたが、「銀河鉄道の夜」の中でカムパネルラは川で溺れる友人を見て飛び込み、自分だけが死んで、友人は助かりました。

 この玉川上水は、江戸時代前期に江戸市中の飲料水をまかなうために多摩川上流から四谷まで掘削され、昔は流れが速く水量も多くて、上記のように「人喰い川」と呼ばれたということですが、今は水かさも減って、太宰が死んだ頃の面影はありません。

 「風の散歩道」から見下ろしても、かろうじて水の流れが見える程度になっています。

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