「雨ニモマケズ」詩碑

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1.テキスト

 雨ニマケズ
 風ニマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニ
 モ マケヌ
   丈夫ナカラダヲ
         モチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテ
            ヰル
 一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ
      野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ
         入レズニ
      ヨク ワカリ
        ミキキシ
           ワカリ
ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サ萓ブキノ
      小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモ
       アレバ
 行ッテ看病シテ
        ヤリ
 西ニツカレタ
        母アレバ
    ハナ
 行ッテソノ
     稲ノ束ヲ
         負ヒ
 南ニ
   死ニサウナ人
          アレバ
 シヅカニ
 行ッテ
   コハガラナクテモ
      イヽ
行ッテ     トイヒ
 北ニケンクワヤ
       ソショウガ
 ツマラナイカラ  アレバ
     ヤメロトイヒ
 ヒドリノトキハ
     ナミダヲナガシ
 サムサノナツハ
    オロオロアルキ
 ミンナニ
    デノボート
         ヨバレ
 マタ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
    サ ウイフ
         モノニ
    ワタシハ
      ナリタイ

  南無無邊行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多寶如來
南無妙法蓮華経
 南無釋迦牟尼佛
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

2.出典

〔雨ニモマケズ〕」(「補遺詩篇 II」)

3.建立/除幕日

2008年(平成20年)11月3日 建立

4.所在地

東京都世田谷区北烏山5丁目15-1 妙壽寺境内

5.碑について

 世田谷区北烏山2丁目~6丁目の界隈には、寺町通を中心として26もの寺院が軒を連ね、「烏山寺町」とも呼ばれています。関東大震災の後に、帝都復興院による復興計画に基づき、浅草、築地、本所、深川などで被災した寺院が、この地域に移転してきたことに端を発しています。
 この妙壽寺も、そのような寺院の一つで、もとは1631年(寛永8年)に谷中清水町(現台東区谷中町)において「妙感寺」として創建され、1662年(寛文2年)に猿江村(現江東区深川)に移転して「妙壽寺」と改名し、以後260年にわたって同地で多くの檀信徒を集めていましたが、1923年(大正12年)の関東大震災で堂宇の全てを焼失し、この北烏山の地に移転してきたということです。

 寺町通に面した山門は、下のように落ち着いた風格があります。

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 この門を入ると、緑の豊かな参道が続いています。

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 この道を少し進むと左手に、美しい黒御影石でできた賢治の詩碑があります。

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 碑文は、賢治が「雨ニモマケズ手帳」に記した自筆文字を写しとったもので、賢治がこの手帳に記していた「略式十界曼荼羅」も一緒に刻まれています。

 碑の裏面には、「立正安國論進覧 七百五十年記念/宮澤賢治詩碑建立」とあり、日蓮が先の執権北条時頼にこの国家諌暁の書を提出したことの記念に、建てられたようです。

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