栗原敦著『宮沢賢治探究』上・下

 お正月休みの間に、栗原敦さんが近年の研究を集成された大著『宮沢賢治探究』上・下を読みました。
 昨年夏に上梓されてから、折に触れて興味を引かれた論考をぽつぽつと拾い読みしていたのですが、今回あらためて全体を通読する機会が持てて、賢治の世界に対する栗原さんの深い洞察にたっぷりと接することができ、新年早々とても幸福な時間を過ごすことができました。

宮沢賢治探究 上 思想と信仰 宮沢賢治探究 上 思想と信仰
栗原 敦 (著)
蒼丘書林 (2021/9/1)
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宮沢賢治探究 下 表現の論理 宮沢賢治探究 下 表現の論理
栗原 敦 (著)
蒼丘書林 (2021/8/1)
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 私自身は、ここで栗原さんの研究について論評できるような識見はとても持ち合わせていませんが、ただたとえば、「下巻」の「詩探究」の項に掲載されている、「永訣の朝」や「樺太鉄道」や「〔月の鉛の雲さびに〕」などの作品の評釈に目を通していただくだけでも、栗原さんがテキストを読まれる際の細やかな感性とその透徹した深さを、おわかりいただけると思います。
 また、そのような「読み」を土台にして、さらに作品世界の奥深くへ、作者の思想にまで入っていく栗原さんの「研究」の基本的スタンスについては、上巻p.314の「小倉豊文の最晩年の論考のこと」という文中の下記の箇所が、明らかにしてくれています。

 元来、私たちが構成しているこの社会は、一見簡単な約束と厳しい規制の下に作られているようにも見えながら、その実、かなりに緩やかな合意と、暗黙の容認によって結ばれている側面ももっています。それゆえ簡単には壊れないという柔構造性と、一局面や一部分だけを取り出して問題化すると訳がわからなくなりやすいという危うさとを伴っているものです。だから、学術的な共通基盤は、あらゆる可能性を一つずつつぶして検証する徹底性と、全体を見渡して本質を外れない穏やかな判断に至る総合性とによって、ようやく形成されることになります。なかなか面倒なことですが、多くの先人たちの考究、探索の積み重ねを受けて、よりよく、より深い認識に至り、それが共有されるよう努める以外に道はないのでしょう。

 ここに書かれているように、私たちの賢治理解における「学術的な共通基盤」を何とかして形成するために、栗原さんが「あらゆる可能性を一つずつつぶして検証する徹底性と、全体を見渡して本質を外れない穏やかな判断に至る総合性」をもって、これまで積み重ねてこられた営みの成果が、まさにこの本そのものだと言えるでしょう。

 そして、栗原さんがこのようなミクロ的&マクロ的な方法論を両輪として、実際に研究を進めて行かれる上での駆動力となっているのは、賢治その人に対する敬愛であり、さらにはすべての人間への(しかもとりわけ弱い立場に置かれた人々への)慈愛であるように、私には感じられました。
 全篇には穏やかで謙虚なそのお人柄が満ち満ちている中で、時おり熱い思いが顔をのぞかせる箇所がキラリと光るのも、この本の魅力だと思います。

 さて下記には、上下巻(計938頁)の目次と、その論考の初出年を掲げておきます。本書の視野の広さとその奥行きを、実感していただけると思います。

上巻 思想と信仰

はじめに

Ⅰ 思想と信仰

  1. 宮沢賢治のフィロソフィー 詩(心象スケッチ)と宗教(2018)
  2. 二〇世紀の意味における宮沢賢治の意味の一側面(2017)
  3. 世界的だなどといふことは… 宮沢賢治と草野心平、高村光太郎(2018)
  4. ファンタジーの効用と限界(2019)
  5. 我らのペムペルとネリはいったいどこまで行けるだろうか(2020)
  6. 賢治と近代の表現者・夏目漱石 浩々堂、オストワルド、ジェイムズなど(1992)
  7. 宮沢賢治の仏教とはどのようなものであったか 法華経との出会いまで(2011)
  8. 宮沢賢治の「〈在家〉仏教」とはどのようなものであったか(2014)
  9. 〈禁欲〉の行方(1995)
  10. 粗描・宮沢賢治の生涯 創作と信仰を軸に(1990)
  11. 「賢治像」の形成 《宗教》的側面から(2007)

Ⅱ 書簡と事蹟 探究と考証

  1. 書簡から見えてくるもの 賢治世界観の展開(2014)
  2. 表記と用字、あるいは時期推定書簡存疑 『新校本宮澤賢治全集』書簡集編集作業から(1994)
  3. 手紙の読み方 伊藤与蔵あて宮沢賢治書簡について(1998)
  4. 岩波茂雄あて書簡・異論(1988)
  5. 高村光太郎のために(2020)
  6. 「〔雨ニモマケズ〕」のモデル問題について(2005)
  7. 「詩之家」と宮沢賢治 二、三の接点をめぐって(1995)
  8. 宮沢賢治と〈中国〉(2006)
  9. 阿部治三郎牧師・花巻教会(浸礼・バプテスト)関係者と賢治(1999)
  10. 小倉豊文先生を偲ぶ(1996)

Ⅲ 資料と研究・ところどころ 上

  1. 小倉豊文先生の最晩年の論考のこと(「ド」と「デ」)、日雇のこと(2010)
  2. 「時期推定書簡存疑」(『新校本宮澤賢治全集』書簡集編集作業から)のうち(2016)
  3. 入沢康夫さんを偲びつつ(2019)
  4. 「校本全集」で発表できなかったこと・小沢俊郎さんからうかがった話(2017)
  5. 「きみにならびて野にたてば―賢治の恋」の〈詩〉読解のこと(2011)
  6. 宮澤助五郎さんからご教示いただいたこと(2020)
  7. 宮沢賢治の読んだ本など(2009)
  8. 宮沢賢治の「大乗起信論」など(2009)
  9. 慈雲尊者『十善法語』のこと(2010)
  10. 啄木会と宮沢賢治(1998)
  11. 「労農党」のこと(2016)
  12. 七面講、金野英三関係資料のこと(2017)
  13. 「〔熱とあへぎをうつゝなみ〕」(「疾中」詩篇)の「おんめがみ」のこと(2018)
  14. 竹中久七あて書簡下書と「党の芸術問題テキスト」のことなど(2019)
  15. 「奥田さんからの宿題」のうち(2008)
  16. 奥田弘先生の存在(2005)
  17. 阿部晁「家政日誌」のこと・1(2007)
  18. 阿部晁「家政日誌」のこと・2(2007)
  19. Shūzo Takata のこと(2011)
  20. 国柱会関連の研究状況について(2012)
  21. 『国訳妙法蓮華経』贈呈類別記号のこと(2012)

Ⅳ 拾遺 初期論考

  1. 共同体・自然・信仰〔上〕 宮沢賢治論(三)(1979)
  2. 「心象」の源流(1983)

【作品の魅惑・抄】
尽きることのない魅力(2015)
年譜のこちら側 賢治作品とこんにゃく座(2000)
〈美しいもの〉 宮沢賢治の死生観と宇宙観(2012)
眼差しの往還 銀河系を自らの中に意識して(2016)
すべてさびしさと悲傷とを焚いて… 表現者としての宮沢賢治(1996)
願いのせつなさと物語る楽しさと(1993)

あとがき

下巻 表現の論理

はじめに

Ⅰ 表現の論理

  1. 表現過程論の試み 組版印刷から見えるもの、宮沢賢治の草稿と表現過程(2015)
  2. 賢治の手帳・ノート(2014)
  3. 敗戦後における多様なテキストによる受容 「校本全集」まで(2007)
 童話・散文探究
  1. 夢と起源の物語 『注文の多い料理店』(2006)
  2. なぜ軽便鉄道か 「銀河鉄道の夜」・理念と方法の序(1993)
  3. 意識的と無意識的と 「銀河鉄道の夜」に触れて(2012)
  4. 「銀河鉄道の夜」最終形の生成と「〔或る農学生の日誌〕」 夢・現実・軌道の交錯(2013)
  5. 「ポラーノ広場」論のために 現実の中の争闘から(2019)
  6. 「風の又三郎」雑志(1984)
  7. 保阪嘉内「社会と自分」と宮沢賢治「大礼服の例外的効果」の間(2008)
 詩探究
  1. 宮沢賢治の短歌 短歌に始まる(2006)
  2. テキストクリティーク、もうひとつの『春と修羅』(1995)
  3. 歌・口語・文語 昭和三年の宮沢賢治(1996)
  4. 賢治詩の双頭双尾 口語ヴァージョンと文語ヴァージョンを分かつもの(1996)
  5. 宮沢賢治と詩 〈文語詩〉の位置(1993)
  6. 「永訣の朝」(2009)
  7. 「樺太鉄道」(2003)
  8. 「〔月の鉛の雲さびに〕」(1999)
  9. 「五輪峠」(2000)
  10. 宮沢賢治と黄瀛 詩的邂逅の意義(2010)

Ⅱ 資料と研究・ところどころ 下

  1. 「大ぐまのあしを きたに」や「石炭袋」など 『肉眼に見える/星の研究』を読み直してみれば(1986)
  2. 辞典・事典のこと(2009)
  3. 「死霊寺」の怪(2017)
  4. 年譜のうちそと(2003)
  5. 雪迎えのこと(2010)
  6. 「濁密」事情(1985)
  7. 北川太一さんの近著から(2012)
  8. 「奥田さんの宿題」のうち、また(2015)
  9. 「生徒諸君に寄せる」の行方(2020)
  10. 「疾中」詩篇の範囲(〈S博士〉問題の本当の深層)のこと(2020)
  11. 文語詩未定稿「丘」詩碑(碑面)のこと(2017)
  12. 『宮沢賢治コレクション』と作品の読み(振り仮名)のことなど(2018)
  13. 「奧稲荷」のこと――あわせて『小田島其山追憶集』のこと(2018)
  14. 同封されたある詩人の手紙のことなど(2019)
  15. 次妹の場所 生き生きと、愛に満ちて(2017)
  16. 岩田シゲ回想録のひとこま、イチさんの「宝塚少女歌劇」観劇(2015)
  17. 宮沢クニ「兄〝賢治〟のこと」(2008)
  18. 方面委員とはどのようなことをするものか、各種調停委員の功労者、宮沢政次郎(2014)

Ⅲ 拾遺 追悼文・論考補遺

  1. 小倉先生を偲んで(1997)
  2. 宮沢清六さんへの感謝(2001)
  3. 大橋冨士子さんへの感謝(2011)
  4. 吉本隆明さんのこと(2012)
  5. 入沢康夫さんの大恩に感謝して(2019)
  6. 労苦と嘆息(1996)
  7. 年譜の向こう側(2002)
  8. 宮沢賢治研究・生誕百年前後寸描(1997)
  9. 成熟か拡散か 『新校本宮澤賢治全集』別巻を刊行して思うこと(2009)

【作品の魅惑・抄】
 ブドリが果たしたこと あたり前の民のひとりとして(2016)
 ユーモアの慈愛 「北守将軍と三人兄弟の医者」のことなど(1993)
 豚と虔十が残したもの(1999)
 「鹿踊りのはじまり」と「耕耘部の時計」の間(2005)
 〈悪魔〉のいざない(1994)
 〈美しい文章〉のこと、「さらさら」の秘密(2012)
 〈心象宙宇〉を截る鳥 宮沢賢治の詩的宇宙(2007)
 「稗貫農学校精神歌」「花巻農学校精神歌」口語訳注のこと(2013)
 「生きつづける賢治」のこと(2014)

あとがき