岩波明著『文豪はみんな、うつ』

 精神科医の岩波明氏による『文豪はみんな、うつ』は、2010年に幻冬舎新書で出ていましたが、先月に文庫本で再版されました。
 「病跡学(pathography)」とは、芸術家や学者など特異な才能を持った有名人の心の状態を、精神医学的に究明しようとする試みのことですが、その病跡学の手法を、近代日本の作家たちに適用してみた、という一冊です。

文豪はみんな、うつ (幻冬舎文庫) 文豪はみんな、うつ (幻冬舎文庫)
岩波 明 (著)
幻冬舎 (2021/12/9)
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 取り上げられている作家は、夏目漱石、有島武郎、芥川龍之介、島田清次郎、宮沢賢治、中原中也、島崎藤村、太宰治、谷崎潤一郎、川端康成の10名で、それぞれの生涯における特徴的なエピソードを手際よく紹介しつつ、それらに精神医学的な解釈をほどこし、どんな精神疾患があてはまるかということを論じていく形になっています。
 結果としては、本のタイトルのように「みんな、うつ」となるわけではないのですが、大半の作家がうつ病またはそれに準ずる状態であると、「診断」されています。

 手軽な文庫本で、文章も平易ですし、作家の通常の伝記とは異なった側面から、その「人となり」を覗けることが魅力の一つでしょう。読み物としては面白く仕上がっており、ご覧のように表紙のイラストもユーモラスです。

 賢治ファンとしては、「宮沢賢治」がどのように論じられているのかが気になるところですが、読んでみたところその内容は、福島章氏が『宮沢賢治―芸術と病理』(金剛出版新社1970、後に講談社学術文庫『宮沢賢治―こころの軌跡―』1985)において展開した「賢治=躁うつ説」を、解像度を低くして再説した、という感じでした。
 「解像度を低くして」というのは、福島氏の場合は、賢治の伝記的なエピソードを生涯にわたって細かく点検し、賢治のどのような言動が「躁」または「うつ」の表れと解釈できるのか、具体的に論じているのに対し、こちらの岩波氏の書籍では、そのような具体的事実をあまり細かく確認せず、大ざっぱに「症状」を認定していくからです。
 たとえば下記のような具合です。

 賢治のうつ状態が再燃したのは、二十四歳のときである。抑うつ気分、意欲低下、集中困難などの症状が出現したため、学校を休み実家で静養することになった。なかなか症状の改善がみられないため、結局学校は退学している。(本書p.117)

 この本では作家の年齢は満年齢で記されているので、上で言う「二十四歳のとき」とは1920年8月から1921年8月までの期間ということになりますが、この間の伝記的事項を細かく調べても、著者の指摘する「抑うつ気分、意欲低下、集中困難などの症状」にあたるような所見は、見当たらないのです。
 1920年6月~7月頃には、保阪嘉内あての書簡165に「しっかりやりませう。しっかりやりませう。……」と21回も繰り返し書く威勢の良さでしたし、8月は「摂折御文 僧俗御判」の編集、9月初めには関教授と大迫の地質調査、9月12~13日に妹シゲ・クニを連れて岩手山登山、10月には保阪嘉内あて書簡181で夜の花巻の町を大声で唱題して歩いたことを報告し、12月には国柱会入会、そして1921年1月には突然家出上京して、夏まで東京で活動を続ける……という、むしろ相当に活発な時期なのです。この間に、「学校を休み実家で静養」という事実もありません。
 また、上の「結局学校は退学している」という記載は、1920年5月の盛岡高等農林学校研究生修了を指すと思われますが、当初から予定していた地質調査を終えたことによる「修了」であって、「症状の改善がみられないため」の「退学」ではありません。

 この前後で、著者の言う「うつ状態」に該当しそうな時期を強いて探すならば、1919年3月頃に東京でのトシの看病から花巻に戻り、稗貫郡地質調査と家業の店番をしていた22~23歳の頃に、質屋の店番に対する鬱々たる気持ちを友人たちに書簡で吐露していることが目に付きます。しかしこの間も、地質調査はきちんと行っており、「学校を休み実家で静養」ということはしていませんし、1919年12月には「稗貫郡立農蚕講習所」の講師として一時的に教壇に立ってもいます。また、1919年9月には「〔手紙 一〕」を、12月には「〔手紙 二〕」を謄写版で刷って知人に配付するなど、創作活動も行っているのです。
 すなわち、当時の賢治が家業に対して暗澹たる気持ちを抱えていたのは事実でしょうが、研究生として求められる業務を普通にこなし、創作活動もできていたわけですから、24歳からたとえ22~25歳に範囲を広げて考えたとしても、この頃の賢治が、病的な程度の「うつ状態」にあったと言うのは、難しいと思います。

 それ以外の時期には、たとえば岩手病院で手術を受けて退院した1914年春~夏頃に抑うつ的であったとか、1921年1月に家出をして東京で旺盛に創作を行った時期には軽躁的であった等の、福島章氏が指摘したような気分の上下は、確かに賢治の生涯において印象的な光と影を形づくっています。
 しかし、こういった気分の上下が存在することと、はたしてそれが病的な程度の「症状」に該当するのか否か、あるいは賢治が「躁うつ病」という病気に罹患していたと診断するべきか否かは、また別の問題です。

 そもそもどんな人でも、多少は気分が落ち込んでいる時期があったり、逆に明るく活動的になる時期もあるわけですから、ちょっとした徴候をとらえて「うつ状態」とか「躁状態」とかレッテルを貼ってしまうと、全ての人が「躁うつ病」だということになってしまいます。問題は、そのような気分の上下の「程度」がどのくらいのものなのか、すなわち通常人でも見られる範囲内なのか、それとも「病的」と言うべき状態なのか、そこを見きわめることが精神科医としては大事な仕事のはずですが、著者はこの本でその辺の区別はあまり重視しておられないようです。
 まあ気軽な読み物とするために、あえてこだわっておられないのかもしれません。

 おそらくそれと関連してくるのでしょうが、本書の「おわりに」には、次のように書かれています。

 ある批評家の言うには、精神科医が書く文芸批評は病気の話ばかりでてくるのでちっとも面白くないという。それは確かにそのとおりなのだろうが、そもそも文芸批評というものに面白いものはめったにない。(本書p.228)

 二つ目の文は、「ある批評家」への意趣返しのようで面白いですが、「病気の話ばかり」になってしまう理由は、著者が上記のように「程度」というものを区別せず、相当広い範囲の現象を病的な徴候ととらえてしまうためではないでしょうか。同じ精神科医でも、『宮沢賢治―心の軌跡』における福島章氏や、『解離性障害』における柴山雅俊氏の場合は、「病的か否か」の検討にも注意が払われているので、これらの著者の本はきちんと読めば、「病気の話ばかり」にはなっていません。

 岩波明氏による「症状」のとらえ方の例をもう一つ挙げるならば、「夏目漱石」の章で『坊ちゃん』の中の描写から、漱石自身が幻聴や被害妄想を有していたのではないかと推測する箇所があります。(下記は本書pp.22-23)

 松山中学に赴任していた時代を描いた『坊ちゃん』は、『吾輩は猫である』に続いて漱石が発表した作品である。この小説は明るい青春小説とみられることが多く、国民的な人気も高い。ところが驚くことに、『坊ちゃん』の中においても、幻聴や被害妄想を示す表現が述べられている。
 主人公の「坊ちゃん」は、温泉や団子屋での自分の行動がみなに知れわたっていることに驚き、生徒が自分を「探偵」しているのではないかと怪しむ。さらに次のように幻聴と思われる部分もみられる。

突然おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちる程どん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。(中略)気違いじみた真似も大抵にするがいい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、階子段を三股半に二階まで躍り上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。

 学生寮の新任の舎監に対して、こういった悪戯をしかけることは、賢治も盛岡中学4年の時にやっていたらしいですが、著者はその騒音を「幻聴と思われる」と解釈しています。通常なら、学生が音を立てておいて素早く逃げた、と推測する方が一般的でしょうが、著者の見方はユニークです。

 しかし全体としてこの本は、気軽に楽しめる読み物と言え、Amazonのレビューも概ね高評価です。
 ただ、レビューの中でも「基本的な事実誤記が散見される」との指摘がなされているように、賢治の章にも若干間違った記述があるようです。とりあえず私が気づいたものだけ、下に挙げておきます。

  • p.110:「賢治の父、政次郎せいじろうは……」→「政次郎まさじろうは……」
  • p.112:「盛岡中学時代は、文学への傾倒とともに、父親との確執がより鮮明となった。」→中学時代には、父との確執は鮮明ではなく、少なくとも表面的には従順な息子として振る舞っていた。
  • p.113:「賢治は中学五年のころより、熱心な法華経の信者となった。」→賢治が初めて法華経をまとまって読んだのは、中学を卒業して半年が経った1914年9月に、父が友人の高橋勘太郎から『漢和対照 妙法蓮華経』を贈られた時と推定されている。そしてまだこの時も、すぐに「熱心な法華経の信者となった」わけでなく、そうなるのはさらに何年か先のことである。
  • p.113:「賢治の躁うつ病が発症したのは、中学卒業前後の時期である」として、卒業後の岩手病院入院の時期の短歌をいくつか挙げていくが、p.115に挙げている「うしろよりにらむものあり……」の短歌は、この時期ではなく中学2年の頃の作なので、著者の言う「発症」の頃の精神状態を表す例としては、不適当である。
  • p.117:「賢治は、日蓮宗僧侶である田中智學が創設した法華経の教団、国柱会に入会した。」→田中智学は10歳で日蓮宗に入門したが、宗門に疑問を抱いて17歳で還俗した。その後の様々な活動は、国柱会創設を含めて在家として展開しており、僧侶としてではない。