父からの分離と墜落恐怖

 天沢退二郎さんが早くから指摘され、また私も以前に「墜落恐怖と恐怖突入」という記事に書いたように、賢治の初期の童話には、「墜落する」というテーマがしばしば登場します。
 「蜘蛛となめくぢと狸」では、三人がそれぞれ頑張って出世し偉くなった挙げ句に身を滅ぼし、「双子の星」では、チュンセとポウセの双子が彗星ほうきぼしに欺されて天空から海底に落下します。また「貝の火」では、宝珠をもらって舞い上がってしまったホモイが、最後には宝珠を失った上に失明し、「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」では、世界裁判長にまで登りつめたネネムが、その得意の絶頂で踊りの足をすべらして転落し、人間世界に「出現」してしまうのです。

 天沢退二郎さんは、これらの作品に共通する特徴として、「《落ちる》あるいは《堕ちる》ということへの危機感ないし強迫観念」を指摘しておられますが(ちくま文庫版全集「蜘蛛となめくぢと狸」解説)、その「強迫観念」的な有り様をまさに象徴しているのが、「貝の火」の次のような描写です。

 その晩ホモイは夢を見ました。高い高いきりのやうな山の頂上に片脚で立ってゐるのです。
 ホモイはびっくりして泣いて目をさましました。

 ホモイがこの夢を見た時点では、まだ宝珠は美しく輝いていたのですが、それでもホモイはすでに「きりのやうな山の頂上に片脚で立って」いるような心境にあり、今にも墜落しそうな恐怖に迫られていたのです。

 これらのお話で、なぜ登場人物たちが「墜落」してしまったのかを見てみると、少なくとも「蜘蛛となめくぢと狸」「貝の火」「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」では、「驕り高ぶった者が破滅する」というパターンになっていることがわかります。
 ではさらに、なぜ彼らは驕り高ぶってしまったのかと考えてみると、「蜘蛛となめくぢと狸」では三人が「地獄行きのマラソン競走」をしていたという結末から、まるでそれは生き物の「業」のようにも見えます。一方、「貝の火」ではホモイが父親の忠告を聞かずに暴走したこと、「双子の星」では(彗星ほうきぼしに欺された面もあったとは言え)チュンセとポウセが「王様のお許し」を得ずに持ち場を離れたことが、原因でした。「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」では、ネネムの自我がどんどん肥大していったこと自体の結果のようで、やはり化け物の「業」のようにも思えます。

 「墜落恐怖と恐怖突入」でも書いたように、このように多くの作品に共通したテーマが見られることの背景には、きっと作者である賢治自身が、実際に当時このような「強迫観念」を抱いていたからではないかと推測されます。もしもこの頃の賢治がそのような強迫観念を持っていたとすれば、それについて考える上で私が特に注目したいのは、「父親との関係」です。
 上記の童話で「父」という存在は、「貝の火」のホモイが父親の忠告に従わず、「双子の星」の双子が父権的な存在である「王様」の規則を無視したために墜落したということに、最もわかりやすい形で表れており、そこには「父の言うことを聞かないと破滅する」というような図式があります。「蜘蛛となめくぢと狸」や「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」には、そもそも父親的存在は現れず、主人公たちは父権的秩序を欠いた世界で行動をせざるをえませんが、それが歯止めのない暴走につながっていったとも言えるでしょう。
 逆に言えば、きちんと「父の掟」に従っておれば、墜落など起こりえない、ということではないでしょうか。

 これを賢治の生涯と照らし合わせてみると、やはり同型のパターンが見てとれるように思います。
 まず、生まれてから小学校を卒業するまでの賢治は、自宅で父親の庇護のもとで育ち、小学5年の作文では「私はお父さんの後をついで、立ぱな質屋の商人になります」と書くなど、父親に忠実な子供でした。
 そして小学校では、1年から6年まで優等生を続けたのです。

 中学は、親元から離れて盛岡中学に進学し、最初のうちは真面目に勉強していたようですが、高学年になると成績が落ち、「操行」も乙から丙になっています。3年の終わりには、寄宿舎の「舎監排斥事件」に関わり、退寮処分を受けました。
 すなわち、真面目だったはずの賢治は、父から離れて生活した結果、成績や素行の面で、初めての転落を経験したわけです。

 次に進学した盛岡高等農林学校でも、賢治は親元から離れて生活することになりますが、本科の3年間は、特待生・旗手を務める最優等生を続けました。ただ、卒業後に研究生となってからは、5月に徴兵検査を受けると「第二乙種」という期待はずれの結果で、実験でもミスばかりして悲観的になり、体調が悪化して診察を受けると「肋膜の疑い」と言われた挙げ句に、結局7月に研究生を辞めて、自宅に戻ることになります。
 その後は、父親と宗教的に対立して衝突が絶えなくなり、気の進まない質屋の店番をする日々を送ります。ついには、「私は実はならずもの、ごろつき さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長、ごまのはひの兄弟分、前科無数犯、弱むしのいくぢなし、ずるもの わるもの 偽善会々長 です」(書簡152a)などと自虐的になり、また父親からは「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんか折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。」(書簡154)とまで叱責されたようです。
 すなわち、高等農林の3年間は輝かしい成績を収めたものの、卒業後は徐々に父親に反抗的になり、精神的にも苦悩に陥って、それまでの高みからまさに「墜落」したかのような状態になったのです。

 このような悶々とした日々に何とか決着を付けようと、1921年1月に賢治は突然家出をして上京し、父が自分と同じ宗旨に変えるまで帰らないと宣言したのですが、結局親友の保阪嘉内と一緒に国柱会で活動するという目的はかなえられず、また父の宗旨も変えられず、トシの病状再燃の報せを受けて、中途半端なままに帰宅することになりました。これもまた、父に逆らった結果の失敗体験となったことでしょう。

 つまり、25歳頃までの賢治は、父親から離れて自分の好きなようにやっていると、必ず失敗し転落するというパターンをたどっているわけで、このような経験を積み重ねているうちに、「父親の身近にいて言うことを聞いていないと、痛い目に遭う」という観念にとらわれるようになったとしても、無理はないように思えます。
 また、それと同じようなことを父親の側から、政次郎氏も述べています。

 政次郎は賢治を、早熟児で、仏教を知らなかったら始末におえぬ遊蕩児になったろうといい、また、自由奔放でいつ天空へ飛び去ってしまうかわからないので、この天馬を地上につなぎとめるために手綱をとってきたといい、また、世間で天才だの何だのいわれているのに、うちの者までそんな気になったら増上慢の心はどこまで飛ぶかしれない。せめて自分だけでも手綱になっていなくてはいけないと思った、といっている。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻年譜篇p.21)

 父親から見ると賢治という子供は、常に自分が「手綱」を取っていないと「いつ天空へ飛び去ってしまうかわからない」存在であり、いったん天空に飛び去ったら、あとは冒頭に述べたような意味で「墜落」するのは、不可避と見えていたのでしょう。
 そしてもしも、このような父親の考えを息子が素直に取り込んで内面化したならば、先ほど述べたように「父親の身近にいて言うことを聞いていないと、痛い目に遭う」という強迫観念が生まれるのは当然でしょうし、それが童話の形をとると、「王様の言いつけを守らずに海に落ちた星」「父の忠告を聞かずに身を滅ぼした兎の子」「父が不在なので驕り高ぶって破滅した蜘蛛やなめくぢや狸やばけもの」ということになるのかもしれません。

 ただしかし、それでも賢治は、このように厳しくも有り難い父親によって「地上につなぎとめ」られたままでいることには甘んじることなく、あくまでも独立を求め続けていました。農学校の教師をしている間は、公私ともに充実した生活を送れていたはずなのに、突然辞めて職もないままに「羅須地人協会」などと称して一人暮らしを始めてしまいましたし、その無茶がたたって病気になり親元に戻った後も、「来年の三月釜石か仙台のどちらかに出ます」(1930年の沢里武治あて書簡286)などと書いており、やはり家から出る希望は、棄てていなかったのです。

 これこそが、父が言うところの「天馬」の精神の表れであり、賢治の生まれ持った輝かしい特質だったのでしょう。彼がこのような精神を持ってくれていたおかげで、私たちは素晴らしい詩や童話を読むことができるようになったのだと思われます。
 (しかしまあ、「天馬」を「手綱」で「地上につなぎとめ」ようと奮闘する父親も大変だったでしょうが、天馬が本当に天馬だったなら、これほど苦しい束縛もなかったことでしょう。)