かくして置いた金剛石を…

 レオナルド・ディカプリオ主演の映画「ブラッド・ダイヤモンド」(2006)は、西アフリカ・シエラレオネの内戦を舞台に、反政府武装勢力(RUF)が闇の資金源とする「紛争ダイヤモンド」とその採掘のための強制労働、住民の虐殺、拉致・洗脳された少年兵などの深刻な社会問題と、地元の漁師の家族愛というヒューマンドラマが、巧みに織り合わされた名作です。
 その中に、ディカプリオ演ずるダイヤの密輸ブローカーが、ロンドンのダイヤ卸売巨大企業のやり口について、女性ジャーナリストに説明する場面が出てきます(下画像は、Amazon Prime Videoより引用)。

「彼らは、値崩れしないようにダイヤを買い占めて隠し、貴重さを宣伝する。だからRUFにダイヤをバラまかれると大いに困るわけだ。絶対避けたい。」

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 この「値崩れしないようにダイヤを買い占めて隠し……」という言葉によって、多くの賢治ファンが連想するのは、「銀河鉄道の夜」の中の次の箇所でしょう。

 するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云ふ声がしたと思ふといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊ほたるいかの火を一ぺんに化石させて、そら中沈めたといふ工合ぐあひ、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざとれないふりをして、かくして置いた金剛石を、たれかがいきなりひっくりかへして、ばらいたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何べんも眼をこすってしまひました。

 ここは実際、賢治という人はまあよくもこんなに独創的で spectacular な比喩を思いつくものだと感動してしまう箇所の一つですが、1924年8月17日の日付のある「〔北いっぱいの星ぞらに〕(下書稿(二)」(「春と修羅 第二集」)にも、同様の描写が出てきます。

じつにそらはひとつの宝石類の大集成で
ことに今夜は古いユダヤの宝石商が
獲れないふりしてかくして置いた金剛石を
みんないちどにあの水底にぶちまけたのだ

 賢治がこのような比喩を用いているからには、実際に当時「ダイヤの価格を高く保つために出荷せず隠しておく」ということがあったのだろうかと思って、少し調べてみました。

20201010b.jpg 右の画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1923年3月に刊行された『ダイアモンド』という本です。これは、貴金属宝石店の老舗 GINZA TANAKA の前身「山崎商店」の創業者の甥で、同商店の開発責任者を務めていた岩田哲三郎が、二度の欧米視察の成果も盛り込んで著した、日本最初のダイヤモンドの専門書だということです。2011年には GINZA TANAKA によって90年ぶりの復刊もなされています。
 本書の内容は、ダイヤモンドと人類をめぐる歴史の概観、ダイヤの物理化学的性質、世界各国の産地、ダイヤの加工法、その商業取引の仕組みと現状等の事項を網羅した、まさにダイヤモンドに関する百科全書というべきものです。賢治がこの本を読んでいたかどうかはわかりませんが、著者の岩田哲三郎が銀座の山崎商店で活躍していた時期は、賢治が1918年から1919年にかけてトシの看病のために上京し、人造宝石製造業を夢見たり、岩手県産の鉱物を神田の水晶堂や金石舎に売り込もうとしたりしていた頃と、重なっています。

 さて、この本の第6章「商業的事項」の冒頭、「倫敦ダイアモンド・シンヂケート」は、次のように始まります(pp.324-325)。

 ダイアモンドの商業的方面を述ぶるに當つて逸することの出來ないのは、倫敦ダイアモンド・シンヂケートの存在である。抑もセシル・ローズが南阿に於ける諸鑛地の統一を成就するや、猶ほ其の産出原石を有利の條件にて市場に提供する為めには、更に販賣に係る合同手段を必要なりと考へ、一八九三年ドベヤー合同鑛山會社の重なる株主数名を以て組織せる販賣機關を倫敦に設置し、取引に關する一切の交渉には總て此の機關をして膺らしむることとした。之を倫敦ダイアモンド・シンヂケートと稱する。されば當初シンヂケートのドベヤー合同鑛山會社に對する關係は、恰も其の分身とも云ふべきもので、一は販賣を儋當し一は産出を司配し、此の兩者の間には嚴重なる契約が締結せられ、シンヂケートは常に市場の消長によりて大體の世界の需要量を豫測し、供給が之に超過することなきやうドベヤー合同鑛山會社の産出量を制限し、以て原石價額の維持を計ると共に、其の獨占的權威を利用して需要者の支拂い得る最高限度まで價額を騰貴せしむることに努めつゝある。

 上記で、「ドベヤー合同鑛山會社」とフランス語的に呼ばれているのは、現在もダイヤモンド業界の帝王として君臨しつづけている、デビアス社のことです。この独占的巨大企業と一体となったロンドン・ダイヤモンド・シンジケートは、下記のように世界のダイヤ原石の9割を掌握することによって、その価格を「自由意志によって」コントロールしていました(pp.328-329)。

此の外シンヂケートは南阿に在る小規模の採鑛會社の産出並に砂鑛床から採収せらるる原石をも買取り、出來得る限り其の獨占的特權を有効ならしむることに腐心しつゝあつて、現今世界に販賣せらるゝ原石の約九割は總て此の偉大なる一關門を通過しなければならぬ状態にある。さればダイアモンドの價額──少なくも原石としての價額は普通の商品と異なり、經済學上の鐵則なる需要供給の關係に律せらるることなく、全く倫敦ダイアモンド・シンヂケートの自由意志によりて決定さるゝものなるが故に、其の獨占權の破壊せられざる限りは、シンヂケートが常に不變の方針なりと確言しつゝある價額の維持若くは騰貴は、商況の盛衰に拘らず將來永遠に實行せらるゝことは疑ひを容れない。

 というわけで、「ダイヤの価格の維持もしくは騰貴」を至上命題とするロンドン・シンジケートの支配は、「將來永遠に」続くとさえ思われていたわけです。
 当時の実態を見ると、まず第一次世界大戦後の好況に沸くダイヤ市場は、次のような様子でした(pp.387-388)。

然るに戦争の猶ほ継續せらるゝに伴ひ、莫大なる軍需品の需要と世界の貿易に一大變調を及ぼした結果、中立國は勿論、交戦國中に於ても夥しき所謂成金者を生じ、是等の人々が其の豊富なる資力に任せて、争つて寶石類を購求した為めに、茲にダイアモンド業界空前の熱狂時代を現出するに至つた。此の傾向は既に一九一六年頃から徐々に進行し來つたのであるが、殊に一九一八年から聯合國の形勢が彌々良好を加ふるに從つて一層激励せられ、遂に休戦後の一九一九年から二〇年の初頭に入りて全く絶頂期に達し、米國は固より英佛を始めとし丁抹、諾威、瑞典、瑞西、日本及び獨逸、露國に至るまで、從來曽て見ざるダイアモンドの輸入額を示した。

 しかしこの熱狂も、突然の終わりを迎えます(pp.391-394)。

 斯の如く殆んど天井知らずの高値と、際限なき需要とに加工業者も商人も全く理性を逸して熱狂を續けつゝあるとき、突如として一九二〇年春末の大反動に出會し、市場の景況は九天の高きより奈落の底に直下したのである。されば從來買へば賣れ、賣れゝば必ず利益あるを確信して實力以上に思惑を試みた多數の當業者は、此の急變に遭つて呆然自失、策の施すべきを知らなかつたのは洵に無理ならぬ次第と言はねばならぬ。〔中略〕
併し從前銀行業者が好んで擔保の目的物としたダイアモンドに對して、價額の不安定なる理由を以て金融を極端に手控えたことは、大部分の當業者に少からざる苦痛を與へ、延いて一般のダイアモンド業界の不振を更に甚しからしめたのは明かである。加之同年六七月頃に至り紐育市を始めとし其の他の重要都市に於て發行せらるゝ有力の新聞雑誌が、一齊にダイアモンド價額の下落を報じたので、さらでだに躊躇しつゝあつた公衆は殆んど装身具の購入を見合はすに至り、一層商況を惡化せしめた。茲に於て同業界の機關誌を發行してゐるジュエラーズ・サーキュラー社は同年八月倫敦なるダイアモンド・シンヂケートに一書を寄せて、ダイアモンドの價額に關するシンヂケートの今後の方針に就きて照會する處があつた。之に對するシンヂケートの意向は九月のジュエラーズ・サーキュラー誌に掲載されたが、該囘答はシンヂケートの組合員エル・ブライトマイヤー氏の名によつて左の如き簡単なる電報を以て致されたのである。

八月二十三日附の貴書に對し御囘答申上候、ダイアモンド・シンヂケートの方針は常に價額を維持することに存し、毫も此の方針を變更する意志を有せずとの一句に盡き可申候、貴社は此の報知を貴社の最善と考へらるゝ處に從つて如何様に御利用相成り候ても差支無御座候

〔中略〕
其の結果一九二〇年一二月に、アムステルダムに於けるダイアモンド業者の代表者等が會合を催して、倫敦ダイアモンド・シンヂケートが依然價額の維持を方針とする以上、今後と雖も原石を安價に購入し得ることは不可能なるが故に、加工石の値段を低下する理由は全く存在しない、またダイアモンドの産出が漸次減少の一方であるのみならず、既にダイアモンドが単なる奢侈品にあらずして確實なる投資の目的物として認めらるゝに至つた為めに、全世界を通じてダイアモンドの價額には非常の強気を含んでゐる、故に若し必要の場合には吾等は小資力の商社に財政上の援助を與へて投げ賣りを防止し、且強いて價額を下落せしむるが如き企てをなさんとする者に對しては、其の如何なる方法たるを問はず、猛烈なる反對行動をとるべきことを決議した。

 引用が非常に長くなってしまって恐縮ですが、つまり第一次大戦直後の「ダイアモンド業界空前の熱狂時代」の反動として、1920年の半ばからは「ダイヤ恐慌」ともいうべき状態になり、ダイヤはほとんど売れなくなってしまったのです。
 通常ならばこういう状況になると、経済の法則に従って価格の下落が起こるわけですが、ダイヤに関しては先述のシンジケートが市場を支配し、ダイヤを安く売ることを抑止してしまうために、価格の低下という現象は起こらないのです。業界団体が、「強いて價額を下落せしむるが如き企てをなさんとする者に對しては、其の如何なる方法たるを問はず、猛烈なる反對行動をとる」とまで決議を上げて、掟を破る者が出ないように脅しをかけています。わかりやすく言うと、「アホなことしよったら、この業界で二度と飯食われへんようにしたるど!」という感じでしょうか。

 この書物『ダイアモンド』が刊行されたのは、上述のように1923年3月でしたが、著者はこの時点における世界のダイヤ市場の見通しについて、次のように述べて巻を閉じています(p.397)。

要するに這般の恐慌は、未曾有の熱狂時代の後を承けたるだけ、其の反動も頗る深刻に行はれ、殊にダイアモンド業の性質上、一般の財界が順調に復帰した後でなければ恢復を望むことが出來ないとすれば、將來猶ほ三四ヶ年は同様の状態を継續するものと豫想しなければならぬ。

 すなわち著者は、その後も3~4年はダイヤ不況が続くと予想していたわけですが、実際のところは、もう少し早く回復を見たようです。
 下のグラフは、「Global Rough Diamond Production Since 1870」という2007年の論文からの引用で、1870年以降の毎年のダイヤ原石の生産量(カラット)を、主要産出国ごとに示しています。

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 これを見ると、世界大戦による1915年頃の落ち込みに続いて、1921年頃には確かにダイヤ生産量がほとんどゼロになっていますが、これは1923年頃には、以前のレベルに回復しているようです。
 これを、国ごとの出荷額(米ドル)で見ても、同様の状況です。

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 やはり、1921年におけるほぼゼロまでの落ち込みは、1923年頃には持ち直し、総価格は1920年までの額を上回っていきます。この回復ぶりも、当時の市場を支配していた、「偉大なる」ロンドン・ダイヤモンド・シンジケートの力のなせる業だったのでしょう。
 今から100年前のお話です。

 さて、賢治の話に戻ると、1918年~1919年頃には人造宝石屋になろうかと本気で考えていた彼のことですから、この頃の日本や世界の宝石取引の状況については、ある程度の関心と知識を持っていたことでしょう。その延長線上のこととして、1920年の半ばから1922年頃にかけて、ダイヤモンドがほとんど市場に出てこなくなったことや、その理由は価格下落を嫌う業者たちのカルテルが、ダイヤを金庫に大量に隠匿しているためだということも、おそらく耳にしていたはずです。
 彼のそのような知識が、多少の義憤も込めて、1924年における「〔北いっぱいの星ぞらに〕(下書稿(二)」の表現や、後の「銀河鉄道の夜」の「ダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いた」という痛快な比喩に、結実したのだろうと思います。

 映画「ブラッド・ダイヤモンド」において、ディカプリオがロンドンで密輸ダイヤを流す相手先企業は「ヴァン・デ・カープ社」という架空の名前になっていましたが、その世界的な地位や存在感を考えると、これは現実世界の「デビアス社」に重なります。おそらくデビアス社の地下にも、冒頭に引用した映画の一場面のような超弩級の金庫があって、今もそこにはアフリカの人々の血で購われた巨万の「ブラッド・ダイヤモンド」が、秘蔵されていることでしょう。

 もしもジョバンニが見た「銀河ステーション」の輝きを実際に目にしてみたいならば、この巨大金庫に忍び込んで全部をいきなりひっくり返し、白日のもとにばら撒いてみたらよいわけです。