最近は、来週の日本イメージ心理学会シンポジウムの準備に追われていて、ブログの更新がまったくできていませんでしたが、今日でやっと配付資料やスライドが形になって、先が見えてきたところです。
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ところで、先ごろ京都造形芸術大学の君野隆久さんが、ご著書『捨身の仏教―日本における菩薩本生譚』を、ご恵贈下さいました。ここに深く感謝を申し上げます。
君野隆久さんとは、2014年に「宮沢賢治学会京都セミナー《宮沢賢治 修羅の誕生》」でご一緒をした時以来のご縁なのですが、釈迦の前生譚など「ジャータカ」の研究者でいらっしゃいます。
恥ずかしながら、私はそれまでジャータカというものについてほとんど知らなかったのですが、上記セミナーで君野さんの素晴らしいご講演「宮沢賢治とジャータカ」をお聞きして、その劇的な世界と賢治とのただならむ因縁に、強く惹かれました。これらの物語は、賢治の深層の心理と、どこか奥深くでつながっているような感じがします。
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この本において君野さんは、ジャータカのうちで「菩薩がふみおこなうべき徳目のために身体を犠牲にする──「捨身」する──主人公が登場するもの」を「菩薩本生譚」と呼び、この菩薩本生譚を日本の文化がどのように受容したかを考察されます。その過程で、日本の種々の説話への影響とともに、明恵上人、宮澤賢治、和辻哲郎の各々が、菩薩本生譚とどう関わったのかということを分析しておられるのですが、賢治の章では、私が以前に「ヴェッサンタラ王の布施」という記事に書いたことまでご紹介して下さっていて、恐縮・光栄の至りです。
私が今回の君野さんの著作で、非常に強い印象を受けたのは、「身体を苦しめる行を捨て去ることによって成立したはずの仏教が、なぜ内側に、苦行の極限を表現するような菩薩本生譚を抱えこむこととなったのか」という謎に対して、君野さんが提出しておられる仮説です。
君野さんは本書で、「菩薩本生譚とは、人間が普遍的にもつ深く昏い部分が表象としてあらわれた「反復強迫」なのではないか」との説を提唱しておられるのです。すなわちフロイトの言う、「抑圧されたものの回帰」です。
そして、宮澤賢治について扱った章の終盤には、次のように記しておられます。
本書の序章において、菩薩本生譚は仏教が抑圧、もしくは解体したはずの「死への欲動」が回帰した産物ではないかという仮説を述べた。菩薩本生譚がともなう激しい捨身行為は内攻した攻撃衝動の回帰であるとみるのである。賢治が自分の内なる攻撃衝動に対して非常に敏感でありかつ意識的であったことは、たとえば「土神と狐」のような作品や書簡の随所にみてとることができる。自己を捨てようとする願望は、慈悲の観念と結びつく以前に、攻撃衝動と表裏一体のものなのである。
この考えは、賢治の心理や作品について考える上でも、とても重要な導きとなるのではないかと、私はいま感じています。
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