下の動画は、映画「スター・ウォーズ」のエピソード2「クローンの攻撃」の、中ほどに出てくる場面です。
アナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラが、下記のように語り合っています。
Padme:
Are you allowed to love?
(あなたたちは愛することを許されているの?)
I thought that was forbidden for a Jedi.
(ジェダイは愛を禁じられているのかと思ってた。)Anakin:
Attachment is forbidden.
(愛着は禁じられている。)
Possession is forbidden.
(所有も禁じられている。)
Compassion, which I would define as unconditional love...
(慈愛というのは、無条件の愛のことだけど...
is central to a Jedi's life.
これはジェダイの生き方の中心なんだ。)
So you might say that we are encouraged to love.
(だから僕らは、愛するよう奨められているとも言えるんじゃないかな。)
ここに出てくる、愛着(attachment)と、慈愛(compassion)という、「愛」の二つの形は、賢治の生涯における重要な葛藤にも、通じるものがあるのではないかと思います。
まず attachment とは、「一つの対象に執着する愛」と言っていいでしょう。「小岩井農場」パート九の表現では、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」という道です。
これに対して compassion とは、passion(感情)を com(共にする)という語の成り立ちに見るように、「共感」を基とする愛です。passion は、語源的には「苦しみ」という意味で、ここから「キリストの受難」という特別な意味も出てきたわけですから、ここには「共に苦しむ」「共に身を捧げる」というようなニュアンスも、含まれているでしょう。
やはり「小岩井農場」パート九では、「正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」と表現されている道で、これはまさに菩薩の「慈悲」です。「共苦」という概念は、「〔雨ニモマケズ〕」の、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」にも通じるものだと思います。
ところで、「スター・ウォーズ」における「ジェダイ」という設定には、その衣装を含めていろいろ東洋的な様式が取り入れられていますが、上のような「ジェダイの掟」は、非常に仏教的な色彩を帯びていると感じます。
以前の記事で私は、賢治は並外れて強い「〈みちづれ〉希求」を抱いていたのだろうということ、そして「個々の人間を〈みちづれ〉として」求めた結果はいずれも挫折に終わり、結局は「全ての衆生を〈みちづれ〉として」生きる道を選択をしたのだろうということを書きましたが、これは「スター・ウォーズ」風に言えば、attachment(個別的な愛)を超克して、compassion(普遍的な愛)に至る道だった、ということになるわけです。
また「青森挽歌」に出てくる、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という命題は、上のアナキンの言葉では、"Attachment is forbidden"に、まさに対応していると言えます。
ただ、上の場面では優等生的に「ジェダイの掟」を説明していたアナキンでしたが、その後結局パドメに対する強い attachment に振り回されてしまった結果、暗黒卿ダース・シディアスの陰謀によってフォースの暗黒面に墜ち、ダース・ベイダーになるという運命が待っていたのです。
田中良則
compassionを慈愛と訳すのは現代ではそういう使い方もするのでしょうか。辞書では、哀れみ、同情 となっています。ある外国の方は憐憫がいちばんいいというように書いていました。unconditional loveというのはかなりめちゃくちゃな使い方だと思います。
hamagaki
田中良則さま、コメントをありがとうございます。
確かに、compassion の辞書的な訳語としては、ご指摘のように「同情」「憐憫」というのが一般的だと、私も思います。
ただこの箇所では、compassion が「愛」の一形態として語られているため、上のアナキン・スカイウォーカーの台詞に「同情」あるいは「憐憫」を当てはめると、相当に「上から目線」の感じになってしまい、ちょっと違和感が生ずると思います。
そこで、同情も憐憫も、他者に対する「慈しみ」の気持ちに根ざすところが本質的だろうと思いましたので、またこれは仏教的な「慈悲」にも通ずるように感じましたので、ここはあくまで私訳(試訳)として、「慈愛」とした次第です。
私としても、これが一般的な訳語として、他の文脈でも通用すると考えているわけではありません。
よろしくお願い申し上げます。