「法華堂建立勧進文」碑
1.テキスト
木石一を積まんとも
必ず仏果に至るべく
若し清浄の信あらば
永く三途を離るべし
2.出典
「法華堂建立勧進文」より
3.建立/除幕日
2003年(平成15年)12月 建立
4.所在地
花巻市中北万丁目 北万丁目共同墓地
5.碑について
花巻市中北万丁目の花巻南高校の東側の道を、高校の角から北へ向かって400mほど行くと、「北万丁目墓地」への道順を示す下写真のような案内板があります。
この案内に従って道を東に折れてしばらく進むと、「北万丁目共同墓地」があります。
そしてこの墓地の東端のあたりに、無縁仏の墓碑などを集めた一角があって、その墓碑群の中にひっそりと、賢治の「法華堂建立勧進文」の最後の4行を刻んだ、この碑が立っています。
※
賢治がこの「法華堂建立勧進文」を起草したのは、叔父の宮澤恒治の依頼によるもので、恒治が下記のように回想して書いていることから、農学校に勤めていた頃のことと思われます。
勧進文の由来、――大正年間の末或る日の夕方銀行(花巻銀行)の仕事を了へて帰宅すべくドアを開けて外へ出た処たまたま賢治が農学校から家へ帰るのに出会ひ二人で銀行に戻り日蓮宗花巻教会所の事に付て話し合ったところお世話をして下さいとの賢治の話だったので教会所を建てる事となり其後幾日かを経て再び賢治に会った時法華堂建立の勧進文(芳嘉帳を持ち廻って寄附を集めるつもりではなく単に此の企てのあることを発表して、進んで喜捨する人があれば難有之を受けるつもりで)を書いて見て下さいと云った処一両日後朝、農学校へ登校の際此の勧進文を私の宅へ持って来てくれた。其後一度岩手日報へ之を掲載した事があった。
ということで、叔父の求めに応じて、賢治はこの文を「一両日」のうちに書き上げたということです。
賢治のこの「法華堂建立勧進文」は、全集にはもちろん収録されていますが、多くの賢治ファンの方々にとっても、なかなかまともに読む機会は少ないと思いますので、ここにその全文を掲載しておきます。
法華堂建立勧進文
教主釈迦牟尼正偏知
涅槃の雲に入りまして
正法千は西の天
余光に風も香はしく
像法千は華油燈の
影堂塔に照り映えき
仏滅二千灯も淡く
劫の濁霧の深くして
権迹みちは繁ければ
衆生ゆくてを喪ひて
闘諍堅固いや著く
兵疾風火競ひけり
この時地涌の上首尊
本化上行大菩薩
如来の勅を受けまして
末法救護の大悲心
青蓮華咲く東海の
朝日とともに生れたもふ
百たび開く大蔵は
久遠に契ふ信の鑰
諸山の雑は精進の
鏡に塵の影もなし
正道すでに証あれば
法鼓は雲にとどろきて
四箇格言の判高く
要法下種の旨深し
街衢に民を誨へては
刀杖瓦石いと甘く
要路に国を諌むれば
流罪死罪も尚楽し
色身に読む法華経は
雪のしとねに風の飯
水火審さにそのかみの
勧持の讖を充てましぬ
三度諌めて人昏く
民に諸難のいや増せば
いまは衢の塵を棄て
ひたすら国を祷らんと
領主の請をそのままに
入るや甲州波木井郷
霧は不断の香を焚き
風とことはに天楽の
身延の山のふところに
聖化末法万年の
法礎を定め給ひけり
そのとき南部実長郷
法縁いとどめでたくて
外護の誓のいと厚く
或ひは餞を奉り
或ひは堂を興しつつ
供養を励み給ひしが
やがては帰る本誓の
墨の衣と身をなして
堤婆の品もそのまゝに
給仕につとめおはしける
帰命心王大菩薩
応現化をば了へまして
浄楽吾浄花深き
本土に帰りまししより
向興諸尊ともろともに
聖舎利を守り給ひつゝ
法潤いよよ深ければ
流れは清き富士川の
み末も永く勤王と
外護に誉を伝へけり
后事ありて陸奥の
遠野に封を替へ給ひ
辺土の民も大法の
光隈なき仁政の
徳化四辺に及びつゝ
永く遺宝を伝へしが
当主日実上人は
俗縁法縁相契ひ
祖道を茲に興起して
末世の衆生救はんと
悲願はやがて灌頂の
祖山に修を積み給ふ
奇しき縁は花巻の
優婆塞優婆夷契あり
法筵数も重なれば
諸人ここに計らひて
新に一宇を建立し
たとへいらかはいぶせくも
信楽衆は質直の
至心に請じ奉り
聖宝ともに安らけく
この野の護り世の目ざし
未来に遠く伝へんと
浄願茲に結ぼれぬ
いま仏滅の五五を超え
劫の濁りはいや深く
われらは重き三毒の
業の焔に身を灼けり
泰西成りし外の学は
口耳の証を累ね来て
傲りはやがて冥乱の
諸仏菩薩を詐と謗り
三世因果を撥無しぬ
阿僧祇法に遭はずして
心耳も昏く明を見ぬ
罪の衆生のみなともに
競ひてこれに従へば
人道疾く地に堕ちて
邪見鉄囲の火を増しぬ
皮薄の文化世に流れ
五慾の楽は日に増せど
本を治めぬ業疾の
苦悩はいよよ深みたり
さればぞ憂悲を消さんとて
新に憂苦の具を求め
互に競ひ諍へば
こは人界か色も香も
鬼畜の相をなしにけり
菩薩衆生を救はんと
三悪道にいましては
たゞひたすらに導きて
辛く人果に至らしむ
衆生この世に生れ来て
虚仮の教に踏み迷ひ
ふたたび三途に帰らんは
痛哭誰か耐ふべしや
法滅相は前にあり
人界生はいや多し
仏弟子ここに逸ければ
慳貪とがは免れじ
信士女なかに貪らば
諸仏の仇と身をなさん
世界は共の所感ゆゑ
毒重ければ日も暗く
饑疾風水しきりにて
兵火も遂に絶えぬなり
正信あれば日も清く
地は自から厳浄の
五風十雨の世となりて
招かで華果の至るなり
世の仏弟子と云はんひと
この法滅の相を見ば
仏恩報謝このときと
共に力を仮したまへ
木石一を積まんとも
必ず仏果に至るべく
若し清浄の信あらば
永く三途を離るべし
全部で143行にもわたる長文で、かなり難しい仏教用語も使われていますが、見事に整えられた七五調によって、釈迦の入滅から正法、像法、末法という時代の推移、 日蓮の誕生とその輝かしくも苦難に満ちた生涯、甲州の南部氏が日蓮に篤く仕えた後に遠野に移り、そしてその子孫である南部日実の縁によって、このたび花巻に法華堂を建立するに至った経過を、まさに滔々と述べ連ね、さらに昨今の仏教界の有り様について痛烈に批判をした後、結びで法華堂への寄進を募っています。
それにしても、これほど格調高く内容も深い名文を、わずか「一両日」のうちにさらさらと書き上げてしまう田舎の農学校教師とは、いったい何者なのかと思いますが、まあやはり宮澤賢治という人は、こういう仏教的素養と作文力を、当たり前のように自家薬籠中のものとしていたということなのでしょう。
これは単に「宗教色が濃い」というよりも、まさに純度100%の宗教的テキストですから、賢治愛好家によってもあまり読まれることは少ないのだと思いますが、それでも日蓮の流謫を述べるところに出てくる「雪のしとねに風の飯」という表現や、「世界は共の所感ゆゑ…」という認識論などは、いかにも賢治らしい感じがします。
※
さて、地元の共同墓地の整備にあたって、この賢治の文章の一部を碑に刻んで建立した管理組合は、碑陰に下記のように記しています。
平成十三年管理組合を設立し、
墓地の拡張に取り組んできた。
先祖供養のため宮澤賢治作品
「法華堂建立勧進文」の一節を
刻し管理組合創立の記念とする。
平成十五年十二月
北万丁目共同墓地管理組合
「墓地を整備する」という事業も、言わば「木石を一つ一つ積む」ような行為を地道に重ねていくことなのでしょうが、これによって「仏果に至」り、「三途を離」れるという功徳を、ご先祖様たちのために回向しようというのが、この碑の建立の趣旨なのでしょう。
「法華堂建立勧進文」の碑は、現時点では全国でもこの一つだけで、とても貴重なものだと思います。