前十七等官 レオーノキュースト 誌
宮沢賢治 訳述そのころわたくしはモリーオ市の博物局に勤めて居りました。
十八等官でしたから役所のなかでもずうっと下の方でしたし俸給もほんのわづかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で生れ付き、好きなことでしたからわたくしは毎日ずゐぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すといふので、その景色のいゝまはりにアカシヤを植え込んだ広い地面が、切符売場や信号所の建物のついたまゝわたくしどもの役所の方へまはって来たものですからわたくしはすぐ宿直といふ名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもってその番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきゐをつけて一疋の山羊を飼ひました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股にわたって市の役所へ出て行くのでした。あのイーハトーヴォのすきとほった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、・・・
「ポラーノの広場」のこの書き出し部分は、数ある賢治の作品の中でも、とくに素敵なものの一つです。それこそ、「イーハトーヴォのすきとほった風」が、読む者の心をも吹き抜けていくような感じがします。
最後の箇所は、Mac でフォントを管理する Font Book というアプリケーションで、書体見本としても使われていますので、馴染みのある方も多いことでしょう。
このような場所(=イーハトーヴォ)が、ほんとうに実在するとしたらいったいどんな所なのだろうというのは、賢治ファンならば誰しも考えてみたくなってしまうところですね。
賢治のいろんな作品に、いろんな形で「イーハトーヴォ」は登場しますが、ここでは「モリーオ市の競馬場の番小屋」が、レオーノキューストの住まいとして設定されています。お話の中でレオーノキューストは、自ら「わたしは競馬場に居るからねえ」と名乗り、ファゼーロも彼を仲間たちに、「競馬場に居る人なんだよ」と紹介しています。
上に描写されたキューストの競馬場における一人暮らしは、簡素ながら洗練されていて、お洒落な雰囲気も漂っています。ここを舞台に、これから「ポラーノの広場」の物語が展開していくわけですね。
さて、賢治の作品において「モリーオ市」というのは、現実世界の「盛岡市」に対応しますが、「競馬場を植物園に拵え直す」という話が、私としてはここでちょっと気になりました。実際にこの頃、盛岡の競馬場が何かに転用されるということがあったのでしょうか。
そんなことを思いつつ、盛岡競馬場の歴史について調べてみました。
『いわての競馬史』(岩手県競馬組合,1983)という本を見てみると、盛岡の競馬場は、次のような歴史をたどってきたということです。
明治初期まで: 八幡宮境内の馬場で競馬が行われていた。
1871年(明治4年): 産馬会が盛岡市菜園に長さ1000mの
楕円形馬場を新設。
1903年(明治36年): 競馬会が盛岡市上田に1000mの
近代的馬場を新設し、11月に記念競馬を開催。
その直後、閑院宮載仁親王が盛岡を訪れ、特別競馬会
を開催。臨席した親王は、競馬場近くの「黄金清水」に
ちなんで、ここを「黄金競馬場」と命名した。
毎年春秋2回、3日間ずつ開かれた競馬は、優良馬育成
を目的とした生産地競馬として発展。1日6レースから
8レースを行い、東北一の規模として名を挙げた。
1932年(昭和7年): 一帯の耕地整理の関係から、競馬場を
近くの毛無森に移転。翌1933年11月、新設記念競馬会
にて1周1600mの「新黄金競馬場」がオープンした。
1996年(平成8年): 盛岡市新庄の現・盛岡競馬場に移転。
愛称の「OROパーク」は、昔の「黄金競馬場」にちなみ
スペイン語の「黄金 ORO」からとられている。
このように盛岡競馬場は、1932年に移転をしているわけです。そしてこれは、賢治が「ポラーノの広場」の草稿を完成させたと言われている1931年-1932年という時期に、ちょうど重なり合うのです。
つまり、賢治が「ポランの広場」から「ポラーノの広場」へと改作を行い、その推敲を行っている時期に、彼は盛岡の競馬場が移転になるという話を、きっと耳にしたはずなのです。それを聞いた賢治は、競馬場の広い跡地についていろいろと想像をめぐらせるうちに、「そのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すといふので…」という形で、作品の舞台装置に取りこんだのではないでしょうか。
賢治が実際に、盛岡市上田のこの旧黄金競馬場を訪れたことがあったのかどうかは、よくわかりません。しかし、この上田地区というのは、彼が青春時代を過ごした盛岡中学や、盛岡高等農林学校もあった場所です。賢治が昔を懐かしみ、この若き日の思い出深い地区の競馬場の跡地に、自らの分身とも言うべきレオーノキューストを住まわせようとしたということは、十分に考えられるのではないでしょうか。
私には、そんな気がします。
ということで、レオーノキューストが一人で暮らしていたという可能性のある、この(旧)黄金競馬場の場所について、詳しく調べてみることにしました。
※
まず大まかな位置を知っておくために、『いわての競馬史』に掲載されている、「黄金競馬場新旧略図」を見ておきます。下の図は、その一部分です。
左下の方にある「元 黄金競馬場」が、1932年までの旧競馬場、右上の「新 黄金競馬場」が、1933年以降の移転先です。
右方の「高松池」は、現在も盛岡の観光地の一つで、賢治は盛岡高等農林学校に入学して間もなく、同室の高橋秀松を誘って盛岡の案内をした際にも、この池を訪れています。また文語詩「氷上」は、中学時代にこの高松池でスケートをした時の情景に基づいていると推測されています。
次に、上に相当する箇所をさらに詳しく、当時の2万5千分の1の地図で見てみましょう。
まず下の地図が、競馬場移転前の1911年(明治44年)測図、1916年(大正5年)発行の、2万5千分の1「盛岡」です。旧競馬場は、「黄金馬場」として掲載されています。下の方に「高等農林学校」があります。
そして今度は下の地図が、移転後の1939年(昭和14年)に修正測図、1941年(昭和16年)発行のものです。右上の「黄金競馬場」が、新競馬場です。
最後に、現在の2万5千分の1の地形図(平成10年発行「盛岡」)で同じ箇所を見ると、下のようになっています。
1933年から1996年まで使われた「新・黄金競馬場」の方は、やはり今も右上にはっきりと確認できます。一方、1932年までの「旧・黄金競馬場」は、今はどうなっているのでしょうか。
その場所を確認するためには、地図の下の「旧黄金競馬場跡地は?」というボタンを、クリックしてみて下さい。
地図上で緑色に点滅している箇所が、旧黄金競馬場跡地です。今はすっかり住宅地になっていますが、この住宅の中をめぐる道路の形に、ここでちょっとご注目下さい。
驚くべきことに、競馬場の北東側半分の輪郭に沿って、今も道路が楕円の形に浮かび上がって見えるではありませんか!
この部分をさらに詳しく見てみるために、三つの地図の「旧黄金競馬場」の箇所を拡大すると、下のようになっています。
二番目の昭和16年発行の地形図では、競馬場のあったところは完全に農地になっていますが、ここでも元の競馬場の外周に沿って、まるで競馬場の痕跡を示すかのように、「点々」と軌跡が描かれているのがわかります。これは、地図上では「土囲」を表す記号だということで、あらためて一番上の地形図を確認すると、ここでも競馬場の東半分にそって、やはり「土囲」の記号があるのがわかります。
競馬場が撤去された後も残っていたこの「土囲」に沿って、さらに後に道路が形成されたということなのでしょう。三番目の地図でよく見ると、この楕円形の道路に沿って、等高線も走っているのがわかります。
一方、現代の Google マップでこの部分をもう少し拡大してみると、下のようになります。
Googleマップはベクター画像になっているせいもあってか、ちょっと角々した印象もありますが、それでもやはり「楕円形の半分」という感じはありますね。
ところで気になるのは、このあたりは現在はどうなっているのだろう、ということです。その昔にレオーノキューストが住んでいたという競馬場跡地に、今はどんな風景が広がっているのでしょうか。
ということで、世界中の街並みを居ながらにして見られる Google マップのストリートビューで、ここをちょっとのぞいてみましょう。
下の「スタート」ボタンをクリックしていただくと、上の地図の(A)地点から(B)地点までを、ストリートビューの画像によって、コマ送り動画のようにたどることができます。
途中、「バックストレート」のように直線的な道路が続く箇所もありますが、初めの方と半ば過ぎでは、道が右へ右へとカーブしていくのがおわかりいただけるかと思います。
あるいは、ここをクリックしていただくと、(A)地点におけるストリートビューが開きますので、道路に標示される矢印をクリックしながら、実際に経路をたどって体験していただくこともできます。
全体として、何となく「半楕円形」になっていることを、お感じいただけたでしょうか。
※
あと、当時の「黄金競馬場」がいったいどんな様子だったのだろうというのも、確認しておきましょう。今回お世話になっている『いわての競馬史』を参照すると、当時の写真が3枚ほど掲載されています。
まず下の写真は、後方の山が「八幡山」と推測されることから、競馬場全体を南西の方向から撮ったものかと思われます。柵の形から、何となく「楕円っぽい」感じがわかります。
下の写真も、後方の山はやはり「八幡山」かと思われます。なかなかスピード感がありますが、この走路は八幡山の側のように見えますので、上で見た住宅地の中に残る道路と、同じ側にあたるのではないでしょうか。
最後に、当時の盛岡競馬場では、下のように車をつないだ「繋駕速歩競走」というのも行われていたということです。
こういうレースが行われていたのも、「優良馬育成」という実際的な目的もある生産地競馬ならではなのでしょう。この写真には、「昭和5年6月3日」と日付も入っています。
というようなわけで、その昔にレオーノキューストが住んでいたと舞台設定されていた場所は、現在の「盛岡市高松2丁目」あたりなのではないか・・・という、半分はお遊びの調査でした。
しかし昔の競馬場の形が、80年以上を経た現在も、住宅地の道路に残っているというのはちょっと嬉しい驚きで、レオーノキューストがファゼーロに語りかける次のような言葉が、ふと聞こえてくるような気持ちもしたものでした。
「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だらう。」
「上の方が北だよ。さう置いてごらん。」 ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはこゝだよ。この円くなった競馬場のこゝのとこさ。」
ガハク
面白かったです。ストリートビューを入れたりした工夫が斬新ですね。競馬場の形がやや円形から完全な楕円形になってるのも馬を使ったレースのやり方が変わったってことでしょうかね。
レオノーレキューストの生活を表す冒頭の文章は賢治の目指す自由で美しい理想を示してもいるんでしょうが、最初にこれを読んだときは羨望を越えて衝撃さえ感じました。
hamagaki
ガハクさま、コメントをありがとうございます。
今回は、地図上で記号を点滅させたり、ストリートビューをコマ送り動画にしたりする上で、「アニメーションGIF」というのを使ってみました。
やや手間もかかったのですが、お楽しみいただけたら幸いです。(^_^)
ご指摘のように、「旧」から「新」に変わって競馬場の形も、より長細い本格的な形状になっています。前者は1周1000m、後者は1600mで、当時の帝国競馬協会が定めた規格に合わせたのだそうです。
レオーノキューストの単身生活は、レコードと蓄音機、搾りたての山羊の乳に浸したパン、磨いた靴と、簡素ながら清々しいものがありますね。賢治自身、一時は独居自炊生活をしましたが、これらは心に思い描いていたものなのでしょう。
セキヤマ
記事の面白さと探偵的な推理展開に舌を巻いてます。
今回はあまりにも身近な題材でビックリしました。というのも十数年まえ高松二丁目に住んでいて正に八幡山から手掛松趾へ至るあの道のあたりに住んでいたのです。あの辺りが競馬場跡であったとは!!近所の人からはそんな話は聞いたことがなかったのでもう今となっては知る人もないのでしょう。今度町内会誌でもあるか訊いてみようと思います。今でもその近辺は岩手大学へ行く散歩道にしています。今度歩く時気持ちが新鮮になります。
hamagaki
セキヤマ様、コメントをありがとうございます。
「八幡山から手掛松趾に至る道」とは、何と、ちょうど当時の競馬場の北辺あたりに相当するわけですね。
まさに「レオーノキューストが住んでいたあたり」の地元の方から書き込みをいただけるとは、私としても大変に光栄です。
実は私は、去る2月12日に、この競馬場跡を調べてみようと思って、盛岡駅前の自転車屋でレンタサイクルを借りて、この辺の写真を撮りながら走ってみたのです。
あいにく当日はかなりの積雪で、道路がカーブしていくところなど軌道がちゃんと見える写真があまり撮れませんでしたので、結局記事ではこの時の写真は使わず、Googleのストリートビューを使用することにした次第です。
この日、自転車で往復しながら何枚も写真を撮っていると、雪かきをしていたお爺さんに何の調査かと怪しまれたのか、「県庁の人か、大学の先生か?」などと尋ねられました(笑)。
駅裏の岩手県立図書館では、『いわての競馬史』を閲覧して、競馬場の歴史について調べました。
それにしても私としては、「ポラーノの広場」に出てくるような、「イーハトーヴォのすきとほった風」が吹き抜ける場所をふだん散歩できるというのも、うらやましいかぎりです。
町内会などの情報から、競馬場があった当時のことについて何かわかるといいですね。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
コバヤシトシコ
とても詳しい地図、感動しました。
「ポラーノの広場」には特別思い入れがあって、私も昔少し追いかけました。
かつて岩手大学に学んだ方に、競馬場の跡地が自然の宝庫となっていたと聞き、2006年に黄金競馬場の跡地へ行ってみました。厳重な柵に囲まれて覗いてみるのがやっとでしたが、その広さは実感でき、賢治が変更可能な場所(天沢退二郎氏の言葉)ととらえていたのは実感できました。少し離れたところに、レンガ造りの職員官舎?(案内者の説)もありました。
私としては、開発するなら、自然植物園にしてほしい、と、心の底では思っていましたが、地元の方の話ではそうもいかないようです。
その時、知ったのですが、花巻にも競馬場がありました。羅須地人協会の近くで、賢治の競馬に対する意識とも関連するのか、と思いました。
もし、ご興味を持っていただけるなら、拙著『宮沢賢治絶唱 かなしみとさびしさ』(2011 勉誠出版)237P、「「ポラーノの広場」の競馬場」をご覧ください。
hamagaki
コバヤシトシコさま、コメントをお寄せいただきありがとうございます。
さっそく、『宮沢賢治絶唱 かなしみとさびしさ』所収の「「ポラーノの広場」の競馬場」を拝読しました。
ここではすでに小林さんが、「ポラーノの広場」のプロローグに出てくる「競馬場」と、実際の盛岡の競馬場の変遷史を、関連づけて辿っておられたのですね。
本来ならば上の記事には、先行研究として小林さんのこの論文をご紹介しておくべきところを、思慮が届かずたいへん申しわけありませんでした。
何にせよ競馬場の跡地というのは、心なしかハイカラな雰囲気が残る広大な平原が広がっていて、賢治の心の中においても想像をかき立てる舞台装置だったのかもしれないと、論文を読ませていただきながらあらためて思いました。
小林さんが2006年に訪ねられたのは、毛無森にあった新黄金競馬場の跡地なんですね。
私はそちらにはまだ行けていませんので、機会があれば、私もその「自然の宝庫」を見てみたいです。
あと、私も調べている途中で、花巻にあった競馬場について知りました。「花牧競馬場」とは、何とも素敵な用字ですね。
羅須地人協会の発足と一致して開かれ、「高台の羅須地人協会からは見えた可能性もある」とは、また夢が広がります。
コガヤシトシコ
拙文を書いたときから時間を経てしまって、あやふやなことをお話してしまい赤面しています。
確かに、私が覗いたのは新黄金競馬場の跡地でした。
知人が岩手大学に在学していたのは、1967年からだったと思いますので、当然そこは跡地ではなく、現役の競馬場だったわけです。
知人の話では、自由に入ることができたようで、通り抜けると、ヒバリやヨシキリなどが盛んに鳴いていた、ということです。競馬場の認識が変わってしまいます。
知人に会ったらもう一度確かめますが、旧黄金競馬場はそのころは転用されていたと思うので、やはり跡地ではなく運営していた新黄金競馬場だと思います。
私ももう一度言ってみたいと思います。
「ポラーノの広場」冒頭の文章は、今読んでも胸が躍ります。実感できればどんなにうれしいことか。
q
素晴らしい記事でした。私も数年前この件に興味を持ち歩いてみました。競馬とは直接関係はありませんが、八幡山中腹に明治39年建立の馬魂碑があります。明治の戦争で死んだ馬の鎮魂の為のものとのこと。仲間達が元気にはりきって走る姿を見せてやろうとの心からなのでしょう。現在は完全に忘れ去られてしまった状態で、悲しいのでその後は訪れていません。ですが碑自体はなかなかのものでしたよ。
hamagaki
qさま、コメントをありがとうございます。
明治39年というと、日露戦争終結の翌年というのが一つの契機だったのでしょうが、明治36年に八幡山の麓に黄金競馬場ができた3年後で、まさに「仲間達が元気にはりきって走る姿を見せてやろう」という感じですね。
わざわざ馬のために「馬魂碑」を建立するところからしてそうですが、「南部曲り家」の作りや「チャグチャグ馬こ」の催しにも見るような、岩手の人々の馬に対する優しい思いの象徴のように、感じられます。
私は「碑」というものが、なぜかとても好きな人間ですので、いつかぜひ八幡山の「馬魂碑」を訪ねてみたいと思います。
貴重なご教示に、心から感謝申し上げます。