春日明神さんの帯(メモ)

 童話「風の又三郎」において、三郎は谷川の岸の小さな村に、地元の子どもたちが知らないようなさまざまな話を、外部の世界からもたらします。みんなは、三郎が帯びている「異界」の雰囲気に一方で畏れをいだきながらも、だんだんと親しみを覚えていきます。
 下記の箇所でも子どもたちは、三郎のとっぴな形容に興味を引かれます。その意味するところについて、みんな本当は三郎にあれこれ質問をしたかったでしょうが、彼我の間に横たわる見えない距離を計りかねて、結局は黙ってしまいます。こういう何気ない子どもの雰囲気描写も、賢治らしく素敵にユーモラスな箇所です。

 四人は林の裾の藪の間を行ったり岩かけの小さく崩れる所を何べんも通ったりしてもう上の原の入口に近くなりました。
 みんなはそこまで来ると来た方からまた西の方をながめました。光ったり陰ったり幾通りにも重なったたくさんの丘の向ふに川に沿ったほんたうの野原がぼんやり碧くひろがってゐるのでした。
「ありゃ、あいづ川だぞ。」
「春日明神さんの帯のやうだな。」又三郎が云ひました。
「何のやうだど。」一郎がききました。
「春日明神さんの帯のやうだ。」
「うな神さんの帯見だことあるが。」
「ぼく北海道で見たよ。」
 みんなは何のことだかわからずだまってしまひました。

 子どもたちは、三郎が実は風の精霊だろうと半分信じているのですから、それならどこか異界において、その目で「神さんの帯」を見ていてもおかしくはないと思い、しかし次にはそれが「北海道で見た」などと現実的な話に接続してしまうものですから、いったいその話をどのレベルで受けとめたらよいのか、わからなくなっているんですね。
 しかし、作者によるこの物語世界の設定においては、三郎は(ちょっと変わったところはあるけれど)あくまでも普通の人間の子どもです。妙に科学的な説明を述べる場面はあっても、その逆に神様の姿を直に見るなどという、超自然的体験を期待されている役柄ではありません。
 ですから、この「春日明神さんの帯」というのは、何か現実世界の中で一般人も見ることができる、「物」のはずです。

 ではいったいこれは何なんだろうというのは、誰しも気になるところだとは思いますが、ここで例によって『定本 宮澤賢治語彙辞典』を繙いてみると、この言葉は次のように説明されています。

 春日明神の帯 かすがみょうじんのおび 【文】【レ】 文語詩[岩手山巓]や童[風の又三郎]等に出てくる「帯」や「おん帯」は、春日神社(春日大明神、春日権現とも)の社殿正面の礼拝所に梁から吊り下げられている銅製の鰐口(金口とも)をガランガランと鳴らすのに、太い布で編んだ綱(たいてい紅白の)と一緒に垂らしてある布(たいてい二本)を、和服にしめる兵児帯に診立てた呼称と思われる。あるいは賢治の機知の命名か。

 つまり、神社で参拝する時に、「鈴」や「鰐口」(銅鑼を二枚合わせたような形の扁平な鈴)を鳴らすために下げられている「綱」または「紐」、あるいはそれと一緒に垂らしてある「布」だというわけですね。ちょっと調べてみると、この索状物の名前は、「鈴の緒」というのだそうです。
 なるほど、確かにこれも一つの解釈だとは思うのですが、しかし私としては、何となく違和感が残るところはあります。

 たとえば、三郎は高いところから川の流れる様子を見て「春日明神さんの帯のやうだ」と言っていますが、紅白だったり茶色だったりするこの太い「鈴の緒」の、一体どういうところが、「川」に似ているのでしょうか。
 また、私も行って確認してきたのですが、少なくとも奈良の「春日大社」正面の参拝所には、「鈴」や「鈴の緒」は存在しないのです。そのことは、ネット上ではたとえばこちらの画像を見ていただければわかります。そもそも、神社で鈴をガラガラと鳴らして拝むようになったのはおもに戦後のことで、それ以前には正面の「鈴」は、現在ほど一般的ではなかったということです。

 ということで、この言葉について何となく釈然としないまま日々をすごしていたところ、たまたま先週12月17日には、春日大社の祭礼である「春日若宮おん祭」が、奈良で盛大に執り行われました。これに合わせて、今ちょうど奈良国立博物館において、「おん祭と春日信仰の美術」という特別陳列が開催中であることを知り、何か少しでも「春日明神さん」について参考になることはないかと思って、昨日は冬至の奈良へ出かけてきたのです。

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特別展図録『おん祭と春日信仰の美術』 その特別陳列の内容に行く前に、そもそも「春日明神」とはどういう神様なのかということについて、まずは知識の整理をしておきましょう。調べてみると、これがけっこう複雑なのです。

 奈良の「春日大社」は、摂関家藤原氏の氏神として尊崇され発展していきますが、そのルーツをたどると、奈良盆地の東に位置する春日山・別名御蓋山(みかさやま)が、古代から「神奈備の山」として人々から受けてきた、素朴な信仰に行きつくようです。
 遣唐使の阿倍仲麻呂が、遠い異国の地で故郷を懐かしんで詠んだ歌、

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に いでし月かも

にこめられているように、古くから春日の山は、この奈良の地で暮らす人々にとって、心のよすがだったのでしょう。
 この春日のあたりに、藤原氏も何らかのゆかりを持っていたと推測されていますが、その後着実に朝廷における地位を高めた藤原氏は、768年に常陸国の鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)を、下総国の香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)をそれぞれ勧請し、この地に自らの氏神として、「春日社」を創建します。
 『古社記』によれば、御蓋山には古くから老神が住んでいたが、鹿島大神が南大和の安倍山に着いた際、老神は御蓋山を譲って自らは安倍山に退去したものの、その後安倍山の閉居は堪えられなくなり、御蓋山に帰還を請うて許され、春日社の片隅の榎本神社で、地主神として祀られるようになったということです。

 その後、都は平安京に遷り、南都は全体としては寂れていきますが、栄華を極める藤原氏の氏神である春日社は、篤い保護を受けつつ威厳を保ちつづけました。そして伊勢神宮、石清水八幡宮とともに、日本の「三社」と並び称されるようになっていきます。
 しかしその一方で、同じ藤原氏の氏寺であり、隣に広大な敷地を構える興福寺との関係が、徐々に微妙になっていったのです。
 平安時代には、人々の神と仏に対する信仰が混じり合っていく「神仏習合」が広く進展しましたが、この一体化は、「仏」こそが超越的存在の本質であって、日本固有の「神」はその仏が仮の姿をとって現れたものにすぎないという、「本地垂迹説」に基づくものでした。すなわちこれは、「神」よりも「仏」を上位に置く思想で、当時は仏教の方が、国家権力と密接な関係にあったことを反映しています。

 仏教と権力との結びつきを梃子にして、大規模な石清水八幡宮や八坂祇園社においても、その祭祀の実質的な権限は、神宮寺の僧侶が行うようになっていましたが、興福寺の僧侶も、何とかして由緒ある春日社の祭祀権を握ろうと、摂関家に対してさまざまな働きかけを行います。しかし春日社側も、それを何とか食い止めていました。
 ところが平安末期になって、ついに一線が越えられます。すでに1003年に、春日社第四殿に小さな蛇が現れ、これを機に小さな祠が設けられていましたが、その後旱魃や疫病が流行したのは、この時顕現した春日神の御子=若宮を正しく祀っていないからだと、興福寺の大衆(僧侶集団)が主張しはじめます。そして興福寺側は、春日社の中に「若宮」を正式に祭祀することを発願し、それは摂関家を通して官から認められ、1135年に春日社に「若宮」が鎮座することとなりました。そして翌年からは、現在まで盛大に続く「若宮おん祭」が毎年挙行されることとなったのです。

 それまでの春日社の信仰は、藤原摂関家や朝廷など最上流階級に限られたものであったのに対して、「若宮お若宮おん祭の「風流傘」ん祭」の基盤には興福寺三千衆徒のエネルギーがありました。またこの祭の背景には、京都の祇園祭のように疫病や災害を鎮めるために「神様をもてなし喜ばせる」という目的があったので、様々な趣向を凝らした「風流行列」や、競馬、流鏑馬、舞楽、田楽、猿楽、相撲など、一般庶民にとっても見ていて楽しい催し物が尽くされます。右写真は、頭に豪華な「風流傘」を載せて歩く、田楽座の人です。(上田正昭編『春日明神』筑摩書房より)

 このようにして祭りの人気が人々の間に浸透するにつれ、「春日明神」に対する信仰も、各地に広まっていきました。もとは一貴族が自らの氏神として、一門の繁栄を祈三社託宣掛物願する対象であった神が、一般庶民も様々な思いを託して祈る神となったのです。それとともに、奈良以外のあちこちに「春日神社」ができていくこととなり、現在「神社ポータルサイト日本神社」というサイトで検索すると、全国で「春日神社」という神社は、58社あります。ちなみに三郎は、北海道で「春日明神さんの帯」を見たと言っていましたが、北海道には「春日神社」は存在しないようです。
 右図は、室町時代から近代に至るまで、庶民の家に掛けて拝まれた「三社託宣掛物」というもので、先に述べた日本の「三社」、すなわち伊勢神宮、石清水八幡宮、春日大社の三つの祭神である天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神を並べ、それぞれの神徳である、「正直」(伊勢)、「清浄」(八幡)、「慈悲」(春日)というモラルについて説明を加えたものです。(上田正昭編『春日明神』より)
 このようなところにも、「春日明神」に対する信仰が、全国津々浦々の民衆にまで広がっていたことが、表れています。

 というわけで、かなり繁雑な話になってしまいましたが、春日の神様は奈良にかぎらず、広汎に信仰を集めており、しかも単に「春日明神」と言っても、一柱の神様だけを指しているわけではないのです。
 最初に春日社が創建された時には、これは「春日四所大神」と呼ばれ、鹿島から勧請された武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取から勧請された経津主命(ふつぬしのみこと)、それに(おそらく中臣氏→藤原氏のルーツである)枚岡から勧請された天児屋根命(あめのこやねのみこと)、そしてその妃神である比売神、という四柱の神々を指していました。
 それに加えて、上述のように平安末期に新たに鎮座した、「若宮」=天押雲根命(あめおしくものみこと)を合わせ、その後は「春日五所大神」と呼ばれるようになっています。
 つまり「春日明神」の実体は、この五柱の神々の総称ということになるわけです。

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 ということで、ようやく奈良国立博物館の「おん祭と春日信仰の美術」の話に移ります。
 「春日明神さんの帯」という言葉を文字どおり解釈すると、童話の中で一郎がストレートに質問したごとく、「神様が締めている帯」ということになります。ただここで私たちとしては、「仏様」ならばさまざまな仏像を見慣れていますから、その身なりについても馴染みがありますが、神道の「神様」がどんな帯を締めているのかと言われても、ちょっとピンときません。
 はたして春日明神の衣装について、具体的に知ることはできるのでしょうか。

「鹿島立神影図」(春日大社蔵) これに関しては、今回の特別陳列で展示されていた「鹿島立神影図(かしまだちしんえいず)」というものが、五所大神のうちで第一殿にに祀らていれる、武甕槌命の姿(神影)を描いています。(右図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)
 これは、武甕槌命が常陸の鹿島神宮から御蓋山にやって来たという伝承を絵にしたもので、神様は、当時の貴人の衣装である「束帯」を身に付けています。そして乗っているのは馬ではなくて、鹿島と奈良との縁を象徴する動物=鹿であるところが特徴です。後ろの金色の円は御神体の鏡で、ここではほとんど見えませんが、その中には春日の「五神」の各々の本地仏とされる、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩、観音菩薩、文殊菩薩が描かれています。
 画面一番上に描かれた山は御蓋山で、一番下に控える二人の随身は、後の春日社司の祖先とされる人々です。

 さて、この絵ではあまり大きくは見えませんが、赤い「」と呼ばれる上衣の腰のあたりとお腹のあたりに、少しだけ黒い部分が覗いています。これが、「石帯」と呼ばれる帯で、当時の束帯装束で用いられたベルトなのです。材質は黒皮製で、背中の方には瑪瑙やサイの角などの飾り石を縫い付けてあるため、この名前があります。黒い色は、漆を塗ってあるためで、かなり硬いものだったようですね。「石帯」の画像検索結果を見ていただくと、大体どんなものかおわかりいただけるでしょう。

鹿島立神影図

 ということで、まずはこれこそが、文字どおりの意味で、「春日明神さんの帯」であるわけです。
 しかしこんな黒色の単なるベルトでは、「高所から眺めた川の流れ」の比喩としては、全くピンときません。『語彙辞典』における「鈴の緒」と、五十歩百歩と言ったところでしょうか。

 念のために右に春日明神さん部分の拡大図を載せておきます。帯の背中の方の部分には、飾り石が見えているかもしれません。
 ただいずれにせよ、この春日明神の図像における「帯」を、「風の又三郎」で使われた比喩に結び付けるのはむずかしいようですね。

 次に、春日明神の中でも最も遅く登場し、「おん祭」の主人公として大活躍するところの、「若宮」の図像です。
 これは、「春日赤童子像」というものですが、こちらの神様はさっきの「春日赤童子像」(植槻八幡神社蔵)絵の神様の上品さとはかなり違って、さすがに災害や疫病などの祟りをなす暴れん坊の神様だけあります。手には棒杖を持ち、顔は忿怒相です。(右図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)
 上半身は裸で裳を巻き、ストールのような腰布を付け、これは不動明王の侍者である「制多迦童子」の
姿に基づいていると考えられています。もとはインドの衣装なのでしょう。
 そしてここには、何か一風変わった装飾を伴う腰帯が描かれているのですが、はたして具体的にどんな帯なのか、これだけでははっきりしません。

 ということで、こちらの「春日明神さんの帯」は、デザイン的にはかなり興味深いものの、詳しい形状は不明です。それに、これを「川の流れ」の比喩として用いるには、やはり疑問が残ります。

 以上の二点が、今回の特別陳列に出されていた品々の中で、「神様の帯」という表現に、直接当てはまるものでした。
 しかしこれ以外にも、「若宮おん祭」には様々な豪華絢爛な装束を着た人々が大勢行列をなして出てくるわけですから、そこにはまた多彩な「帯」が登場します。
 それらは、厳密には「神様の帯」ではありませんが、「春日明神のお祭りで見られる帯」ではあります。この種のものまで範囲を広げて調べるとなるとかなり大変になってきますね。
 ただ、今回の特別陳列においては、現物の「帯」としては一つだけ、展示されていた品がありました。

 それは、若宮が遷幸した先の「御旅所祭」で行われる舞楽の一つ、「納曾利」という舞いで使われる装束に巻く「銀帯」です。(下図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)

納曾利装束銀帯

 これは、腰のあたりで背中側に見えるように巻く帯だそうで、安土桃山時代に作られたものということですが、今も鈍く輝く銀色が、とても印象的でした。その形が、はたして「川の流れ」の比喩として適切かどうかはわかりませんが、この色だけは、遠くから眺めた川面の輝きの形容として、悪くないかなと思いました。

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 以上、いろいろと見てみましたが、結局のところ「春日明神さんの帯」という比喩が何を表しているのか、春日大社や若宮おん祭に関連した品々をざっと見るだけでは、よくわかりませんでした。
 お読みいただいて、何かますますこんがらがってしまったというお叱りを受けるような感じもしますが、これもひょっとしたらどなたかの参考になるかもしれないと思い、今回調べたことをここにそのまま記しておきます。

【参考文献】
・上田正昭編『春日明神 氏神の展開』(筑摩書房,1987)
・奈良国立博物館特別陳列『おん祭と春日信仰の美術』図録(2013)