火薬店と銀行

 『春と修羅』の終わり近く、「風景とオルゴール」の章に「火薬と紙幣」という作品があります。

   火薬と紙幣

萓の穂は赤くならび
雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい
鳥は一ぺんに飛びあがつて
ラツグの音譜をばら撒きだ
   古枕木を灼いてこさえた
   黒い保線小屋の秋の中では
   四面体聚形(しゆうけい)の一人の工夫が
   米国風のブリキの缶で
   たしかメリケン粉を捏(こ)ねてゐる
鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ
一ぺんつめたい雲の下で展開し
こんどは巧に引力の法則をつかつて
遠いギリヤークの電線にあつまる
   赤い碍子のうへにゐる
   そのきのどくなすゞめども
   口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば
   たれでもみんなきのどくになる
森はどれも群青に泣いてゐるし
松林なら地被もところどころ剥げて
酸性土壌ももう十月になつたのだ
   私の着物もすつかり thread-bare
   その陰影のなかから
   逞ましい向ふの土方がくしやみをする
氷河が海にはいるやうに
白い雲のたくさんの流れは
枯れた野原に注いでゐる
  だからわたくしのふだん決して見ない
  小さな三角の前山なども
  はつきり白く浮いてでる
栗の梢のモザイツクと
鉄葉細工(ぶりきざいく)のやなぎの葉
水のそばでは堅い黄いろなまるめろが
枝も裂けるまで実つてゐる
   (こんどばら撒いてしまつたら……
    ふん、ちやうど四十雀のやうに)
雲が縮れてぎらぎら光るとき
大きな帽子をかぶつて
野原をおほびらにあるけたら
おれはそのほかにもうなんにもいらない
火薬も燐も大きな紙幣もほしくない

 4行目に出てくる「ラツグ」は、rag すなわちラグタイム・ミュージックのことでしょうが、そんな明るい曲を口ずさみながら、または口笛で吹きながら、秋の野を大股で歩く賢治が目に浮かびます。
 『春と修羅』の前半部においては自らの「修羅性」に向き合おうとして、半ば過ぎにはトシの死があって、この詩集の大半ではどうしても悲愴な調子の作品が目立っているのですが、最終章の「風景とオルゴール」は、総体としてこういう清涼感のある作品群でできている感じがします。

 さて、この作品の「火薬と紙幣」という題名が、最終行の「火薬も燐も大きな紙幣もほしくない」という箇所に由来しているのは、まあ明らかでしょう。「火薬」とは、「武力」の隠喩であり、「紙幣」とは、「経済力」の隠喩であり、合わせてこの社会を支配している世俗的な「力」というものを象徴させているのでしょうか。
 しかし、この作品を全体として読んだ時、印象に残るのは爽快な秋の野山の風景であり、白く冷たい雲であり、群れになって飛ぶ鳥たちです。作者賢治が心を奪われているのはこれらの景色の方であって、題名の「火薬と紙幣」とは、賢治が「ほしくない」と言っている方の象徴なのです。
 ですから私としては、なぜことさら賢治が、自分の興味がないものをわざわざ持ってきて「火薬と紙幣」という題名としたのだろうかと、以前から何となく不思議な感じがしていました。

 そんなことを心の底で思っていたところ、新岩手日報社編『昭和県政覚書』(1949)という本の中に、大正末期から昭和初期にかけての盛岡地方は、「財界の分野は大体…三田義正、中村治兵衛、金田一国士の三系統」に三分されていたという記載があるのを知って、私は何となくこの作品タイトルを連想したのです。
 三田義正(1861-1935)は、1894年に「三田火薬販売所」を設立し、日清戦争後の鉱山熱により火薬の需要が拡大していた時流に乗って、事業を拡張していきます。後には貴族院議員ともなり、私立岩手中学の創設も行うなど社会貢献にも力を入れました。
 中村治兵衛(1851-1927)は、盛岡の商家「糸屋」の中村家の婿養子となって「治兵衛」を襲名し、岩手銀行頭取、盛岡市会議員などを務めた人です。「糸屋」は江戸時代に南部紫根染の布地問屋をしていた縁から、明治維新後に衰退したこの技術を再興するために、1916年に「南部紫根染研究所」を設立しますが、これは賢治の作品「紫紺染について」のモチーフにもなっています。
 金田一国士(1883-1940)は、以前にこのブログでも取り上げましたが、金田一勝定の養子となって、花巻温泉開発など各種事業を展開し、盛岡商工会議所会頭、盛岡銀行頭取をはじめ30余りの役職を占め、一時は他の二人を圧倒し、岩手県全体の財界を支配するほどの権勢を誇った風雲児でした。
 ある時期の岩手県経済界は、金田一国士系統=盛岡銀行=岩手日報と、中村治兵衛系統=岩手銀行=岩手毎日新聞と、二つの派が対立・抗争を繰り広げる状態にあったことは有名です。

 ということで、賢治が『春と修羅』を書いていた頃の岩手県を牛耳っていたという三人のうち、一人は「火薬商」で、二人は仲の悪い「銀行家」で、つまり文字どおり彼らは「火薬と紙幣」を扱っていたというわけです。
 まさに世俗的な権力を、象徴としてでなく現実的な事業によって体現していたわけで、この作品が、「火薬と紙幣」と題されている背景には、こういう事情もあるのかな・・・、とふと思った次第です。

【参考文献】
小川 功: 機関銀行と機関新聞―近江商人進出地・盛岡の金融破綻―