イーハトーブの経塚

 この2月5日まで「江戸東京博物館」で開かれていた「平清盛展」では、清盛が厳島神社に奉納した「平家納経」が展示されていました。当時の美術工芸の粋を尽くしたというこの経典ですが、しかし考えてみると、「法華経30巻+阿弥陀経1巻+般若心経1巻」という仏教の経典を、「寺」ではなくて「神社」に納めるというのは、現代の宗教感覚からはどうしても奇妙に思えてしまいます。
 今の時代ならば、仏教徒であれ神道の信者であれ、立派に拵え上げたお経を、神社に持って行って奉納しようという人は、まずいないでしょう。「厳島神社の平家納経」という取り合わせは、近世以前には日本古来の「神」と外国伝来の「仏」が渾然一体となって信仰されていた「神仏習合」という宗教形態があったからこそ、可能になったものなのです。

 ということで、この国宝は、明治維新の前と後で日本人の信仰の有り様が大きく変化したことを如実に感じさせてくれている事例の一つです。「神社とお経」という組み合わせに居心地の悪さを感じてしまうのは、「神仏分離」に慣れてしまった私たちの感覚のせいであって、何も平清盛が宗教に無知だったからではありません。明治維新とともに猖獗を極めた「神道原理主義」が、それまでの日本の信仰のあり方を変えてしまったのです。

 しかし今でも時には、過酷な弾圧でいったん潰えたはずのこういう伝統的な神仏観が、その後も深いところでは生きつづけているのだな、ということを感じる現象に遭遇することがあります。

◇          ◇

 たとえば、宮澤賢治が晩年の病床で考えた、「経埋ムベキ山」という空想企画です。実はこの発想も、平家納経と似たようなところがあると言えます。
 法華経を地中に保存し、仏の教えが滅ぶ「法滅」の世に備えるという考え自体は、すべからく仏教的なものですが、興味深いのは、その経典を「山」に埋めようという発想です。そもそも日本における「埋経」の第一号と考えられる、藤原道長による金峯山への埋経(1007年)からして、古代から続く山岳信仰の霊所に「法華経」を奉納したというものでした。その背景には、仏教以外の日本土着の信仰との習合が見られるわけです。
 そして、賢治が「経埋ムベキ山」を選定するにあたっても、それぞれの「山」に根ざしている民俗信仰というものを、かなり意識していたふしがあるのです。

 以前に「経埋ムベキ山。」というページにも書いたことですが、賢治がこれらの32の山を選ぶにあたっては、その山が多くの人の認める「名山」であることや、自分の個人的な好みに加えて、その地の「宗教的由緒」も重視したようです。
 「雨ニモマケズ手帳」に書き付けられた「経埋ムベキ山」のリストの最初の方の山々において、それは特に顕著です。旧天王山、胡四王山、観音山、飯豊森、物見崎という花巻近郊の小山は、それぞれ山として格別に立派だとか美しいというわけではありませんが、いずれも山頂には小さな祠があって、昔から附近の人々の土着的信仰を集めてきた場所なのです。
 今も、旧天王山には高木岡神社、胡四王山には胡四王神社(賢治の時代には矢沢神社)、観音山には岩根神社、物見崎には金毘羅権現が、それぞれ鎮座しています。飯豊森には現在は寺や神社はありませんが、頂きには古い観音堂が、山腹には「山神」の祠が建っています。
 賢治は、これらの山にいる神々の力を頼りに、法華経の安全な保護を委ねるという思いのもとで、埋経を構想したのだと言えます。

 つまり、敬虔な仏教徒である賢治は、何より法華経を至高の経典として信仰するとともに、同時に土着の神も敬いつつ、その力を頼みにしたわけで、これはまさに「神仏習合」にほかなりません。
旧天王山の「法華経一字一石塔」 ちなみに、上に挙げた山のうちで、旧天王山と観音山には、すでに昔から「一字一石塔」なるものが建てられています(右上写真が旧天王山、右下写真が観音山のもの)。
 この「一字一石塔」とは、江戸時代以降に盛んになった埋経の方法の一つで、小さな石の一つ一つに法華経などのお経の文字を書き、それらの何万という数の石を土中に埋めるというものです。右の石碑の下には、そのような石が埋まっているはずなのです。
観音山の「一字一石経塚」 賢治もおそらく、この二つの山がそのような由緒を持っていることは知っていたでしょうし、自分が埋経をするとすれば、そのような先達の信仰に連なるという思いも当然あったでしょう。

 晩年の賢治が、手帳に記した32の山。これは、今はやりの言葉にすれば、彼が選定した「岩手のパワー・スポット」であると言うこともできるでしょう。山そのものの威厳や感応力や、そこに鎮座する神の霊験があらたかな場所を、自らの経験と思い入れによってリストアップしたわけです。

◇          ◇

 この「経埋ムベキ山」にかぎらず晩年の賢治は、「法華経至上主義」だった若い頃とは少し変わって、いろいろな土着信仰も尊重する態度を示しています。
 同じ「雨ニモマケズ手帳」には、色鉛筆を使って「庚申碑」を書いている下写真のようなページもあります。庚申信仰というのは、中国の道教に由来しその後日本で様々な土着信仰とも習合していったものです。本来は仏教とは別物ですが、「経埋ムベキ山」が書かれている少し後には、下のように色鉛筆まで使って丁寧に、「七庚申 五庚申 五庚申」と書かれています。

「雨ニモマケズ手帳」より庚申碑
(『新校本宮澤賢治全集』第十三巻(下)より)

 またその「庚申」の上の方には、「巌鷲山」「湯殿山・月山・羽黒山」「早池峰山」という修験道の山岳信仰の山々の名前を記した石碑のようなものも鉛筆で描かれていて、これもまた神仏習合的です。
 彼の若い頃の原理主義的な姿勢も、農民とともに日々を送り、その暮らしに根づいた素朴な信仰の重みを知っていくにつれて、変化を遂げていったということでしょうか。

◇          ◇

 たしかに、法華経だけを一途に信奉していた頃の賢治は、他宗を厳しく否定することもしばしばでした。しかし、後にたとえば「銀河鉄道の夜」においては、キリスト教徒を登場させて彼らの信仰も否定せず、さらにジョバンニの「ほんたうのたった一人の神さま」という言葉や、ブルカニロ博士の「お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」という話を読むと、あたかも彼は宗教の違いを超越した何かを構想していたのだろうかという印象さえ受けます。仏教とキリスト教を「習合させようとした」とまで言うと言いすぎでしょうが・・・。

 さらに、ブルカニロ博士は、「ほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」とも言い、これは諸宗教だけではなくて、科学と宗教までも「習合」させようとする、壮大な企図だと言えなくもありません。
 賢治がもっと生きていたら、さらにどんな風に考えを進めていったのだろうかと思います。

◇          ◇

 ところで、私はしばらく前に、日本人が行ってきた埋経という行為について、とても印象的な言葉を読みました。それ以後、賢治の「経埋ムベキ山」を考える時に、いつも私はこれを意識するようになっています。

 埋納の経文は埋納者自身の象徴である。これを地下に埋めるのは埋納者自身の死葬であり、埋納の場所は埋納者自身の墓所の象徴である。「経塚」なる名称は近世の造語であるということであるが、よくその本質を表現していると思う。(藪田嘉一郎『経塚の起源』綜芸舎)

 賢治が経典を埋めることを考えた動機は、もちろん法華経を後世の人々に届けたいと思ったからでしょう。しかし、上の引用文のような視点から見ると、これは自らの死期の近さを知った賢治が、かつて馳せめぐったイーハトーブの様々な場所を、自らの「終の棲家」とするために選び出したのではないだろうか、と考えてみることもできるわけです。

 「かがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉のように、自分自身を32ヵ所に散華して、愛する故郷と一体になろうとしたのではないか、という気さえしてくるのです。

「経埋ムベキ山」一覧(小倉豊文)
「経埋ムベキ山」の一覧(小倉豊文『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』より)