宮澤清六著『兄のトランク』に、次のような一節があります(p.90)。
・・・・・・大正十二年の正月に、兄はその大トランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現われた。
「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さして見ろじゃ。」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。
当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に「読んで見て下さい」と言って帰ったのだ。
あの「風の又三郎」や、「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。
そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。
「これは私の方には向きませんので」と数日後にその人は慇懃に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
そしてそのトランクは、またうすぐらい蔵の二階にしまわれて、九年という長い年月を経たのである。・・・・・・
清六氏は、前年の3月に盛岡中学を卒業していましたが、11月の姉トシの死去は、やはり彼の心にも深刻な影を落としていました。兄の賢治はすでに農学校教師になっていましたから、次男としては中学を卒業するとともに店の跡継ぎとして商売に専念しなければならない境遇にあったのですが、当時は賢治同様、「家業への嫌悪」も抱いていたということです。
彼はそのような状況で、「暗鬱な家庭から脱出」(『新校本全集』第十六巻(下)年譜篇p.235)したいという願望を持って、12月から東京に一人で下宿し、「研数学館」という私塾に通っていたのです。そこにふらりと、原稿を携えた賢治が現れたというわけですね。
「風の又三郎」(これは初期形「風野又三郎」でしょうね)や「ビヂテリアン大祭」「楢ノ木大学士の野宿」などを目にした編集者の小野浩という人の、正直な感想は一体どうだったのでしょうか。ちょっと本音を聞いてみたい気がします。
「これは私の方には向きませんので」との言葉は、翌大正13年に「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」の原稿を見せられた鈴木三重吉が、「君、おれは忠君愛国派だからな、あんな原稿はロシアにでももっていくんだなあ」と言ったというのよりは、まだ丁寧な応対だったのかもしれません。しかし、掲載を断られたことに違いはありません。
さて、上で清六氏が「東京堂」と書いているのは、実際には「東京社」という出版社で、国木田独歩の「独歩社」が解散した後、同社が発行していた『婦人画報』『少年智識画報』『少女智識画報』という雑誌を引き継ぐ形で、1907年(明治40年)に設立されたものです。この東京社は、清六氏が賢治の原稿を持って訪問するちょうど1年前の1922年(大正11年)1月に『コドモノクニ』という児童雑誌を創刊していましたから、宮澤兄弟が掲載を狙ったのは、むしろこちらの方だったのかもしれません。
これは、野口雨情、北原白秋、サトウハチロー、金子みすゞ、まど・みちおらが詩を寄せ、室生犀星、濱田廣介、小川未明、坪田譲治らが童話を書いていた、大正ロマンの香りあふれる雑誌だったようです。
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私はある事情で、東京社で清六氏が出会った小野浩という編集者について関心を持ったので、少し調べてみました。
小野浩氏に関して、『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇には次のような説明が添えられています。
一八九四(明治二七)年六月二九日生。一九三三(昭和八)年一〇月二一日没。広島県出身、早稲田大学英文科卒、春陽堂・東京社・赤い鳥社に勤め、「赤い鳥」編集のかたわら、同誌上に多くの童話(ほとんどは再話)をのせ、赤い鳥社退社後は翻訳家として「新青年」に寄稿した。
1894年生まれということは、賢治の2歳年上ですが、亡くなった日付を見ると1933年10月21日ということで、これはくしくも賢治が亡くなった日の、ちょうど1ヵ月後にあたります。ほぼ同時代を生きた人だったわけですね。
「青空文庫」には、小野浩の作品として「金のくびかざり」という童話が収録されています。
そして国会図書館の蔵書を検索してみると、ユーゴーなどの小野浩による翻訳本の他に、死後15年が経過した1948年(昭和23年)に、『鬼のゆびわ』という彼の童話作品集が刊行されていたことがわかります。これはありがたいことに、「近代デジタルライブラリー」で全文を読むこともできるようになっています。
この本の「あとがき」には、小野浩氏についてより詳しいことが書かれてありますので、ここに引用させていただきます。
あとがき
小野浩童話選集「鬼のゆびわ」として、ここに編集した九つの童話は、鈴木三重吉主宰の兒童雑誌「赤い鳥」に掲載された数十篇の中から、えらんだもので、発表年月は、つぎのとおりである。
牛のピイタア(大正十三年五月)
大きな白熊(大正十三年八月)
鬼のゆびわ(大正十三年十月)
大まごつき(大正十五年四月)
山賊のなかま(大正十五年八月)
つかまえて見たサンタクローズ(大正十五年十二月)
はじけたとうもろこし(昭和二年三月、四月)
町角のうり子(昭和二年十二月)
かわりものぞろい(昭和三年六月)だいたい、中・高学生ていどの、よみものとして、ふへん的な、おもしろい話材のものをとこころがけてえらび、発表年月順に配列編集した。
小野浩氏は、「赤い鳥」が創刊された一年まえ、大正六年七月に早稲田大学の英文科を卒業し、はじめは「新小説」を編集し、大正八年四月から赤い鳥社に入社、その間、一年あまり創作生活に専念した外は、昭和三年一月まで「赤い鳥」を編集し、その後も同社と関係を持たれた。
氏は、鈴木三重吉先生と同じように、廣島市出身で、詩人の大木惇夫氏、作家の細田民樹氏とは、少年時代からの文学仲間だったという。
こんどの戦争後、また童話を書きだしておられる木内高音氏とともに、昭和三年一月、小野氏は赤い鳥社を退社されたが、そのあと編集部に入ったのも、廣島市出身の松本篤造君であった。松本君は、はじめ、わたくしと同じ「赤い鳥」の投稿仲間だったが、前期「赤い鳥」以後、逝ってしまったし、小野浩氏も昭和八年十月二十一日長逝した。そしてそのあとで、鈴木三重吉先生も長逝されてしまった。
わたくしは、後期「赤い鳥」の編集にしたがった関係で、また、同じ中央線中野附近に住んでいたので、小野浩氏、また松本篤造君とも、よく、往来した。とくに、小野さんとは、先輩後輩のあいだがらから、小野家とも、家庭的な交渉をも持った。
小野さんには、童話の外に小説その他の著作の原稿ものこっている。小野さんは人間として、どちらかというと、一種の詩人はだの人で、清廉潔癖のタイプであった。いつも、わたくしは、警告を発せられる背後に、あつい人情を感じた。その点は鈴木三重吉先生につながるものがあった、と思うのは、わたくしだけであろうか。
氏の童話集を編集し、刊行することの、おそきにすぎることを思うものだが、戦争中は、作品の性質から、日のめを見ることは出来がたかったろうし、さいわいにして、こんど國民図書刊行会の大橋貞雄氏の御好意にによって、選集として、一部のしごとを刊行するはこびになった。装幀さしえに、「赤い鳥」時代の、やはり小野氏じっこんの画家、深沢省三氏の画筆を得たことも、編者のよろこびである。すこしばかり、氏と童話についての思い出などを書いて、あとがきとした。
昭和二十三年七月三十一日三鷹町牟礼にて與田準一
小野浩という人の人柄についても、上の文章から少しだけ垣間見ることができます。作品を読むと、いずれもわかりやすく適度な教訓臭もあり、穏当な印象を受けます。このような童話を書く人が、賢治の「桁っ外れの」作品を読んで品定めをしなければならなかったのですから、何とも皮肉な感じがします。
それから、上の「あとがき」で興味深かったのは、この小野浩童話選集の挿絵を担当しているのが、岩手県出身の画家、深沢省三であり、小野浩氏と深沢省三氏は「じっこん」の間柄だったということです。
賢治は、1931年(昭和6年)9月の最後の上京の際に、深沢家を訪ねています。下記は、省三氏の妻でやはり岩手県出身の画家である深沢紅子氏による回想です(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇p.467)。
吉祥寺の富士見通りに菊池さんと隣り合わせに家を建てたのは昭和五年で、二月にはそこへ移りました。昭和六年の夏ころ、宮沢さんが菊池さんを訪ねてきて留守(夫妻で外出中)だったので、うちへこられ、菊池さんに渡してほしいと包みをことづかりました。宮沢さんに私があったのははじめてですが、噂はしじゅう聞いていましたし、宮沢さんも菊池さんの隣りは深沢だとご承知でした。宮沢さんは白いつめえりのような服にカンカン帽姿でした。お上りくださいといってもここで結構ですと玄関に立ったままでした。たいそう暑かったせいか、水をくださいということでコップで水をあげました。夜菊池さんが来て包みをあけましたら、浮世絵の和本とレコードでした。
「水をください」と言った賢治は、おそらくすでに発熱していたのでしょう。この日の夜にはひどい高熱になり、翌21日には両親あてに「遺書」も書きました。
深沢省三・紅子夫妻は、その後それぞれ賢治のたくさんの童話の挿絵を描くことになります。上の深沢紅子氏の回想に出てくる「菊池さん」とは、『注文の多い料理店』の挿絵を描いた菊池武雄で、鈴木三重吉に賢治の原稿を見せて『赤い鳥』への掲載を頼んだのは、ほかならぬ彼でした(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』)。深沢省三も菊池武雄も(そして草野心平も)、賢治が亡くなった翌1934年2月に新宿の「モナミ」で開かれた「第一回宮澤賢治友の会」には顔をそろえています。
◇ ◇
ということで、賢治と同時代に童話を書き、お互い直接会うことはなかったが間接的に関わっていた、小野浩という人について、少し見てみました。
今回、私がこんな記事を書いた理由は、実はこの人と同姓同名の福島県在住の方と、私はとても親しくしていただいていて、先の震災後になかなか連絡がとれず心配していたところ、近いうちにお会いできることになったのです。ご自宅が津波の被害を受け、しばらく他県へ避難されていたそうですが、今は福島県に戻って毎日お仕事で多忙だとお聞きした時には、本当に涙が出そうになりました。
私事ながら、小野さん、また大沢温泉での再会を、今から心待ちにしています!
かぐら川
ごぶさたしています。
以前、小野浩について私も調べたことがあります。今はweb上では見れなくなった旧「めぐり逢うことばたち」にも少し書いた記憶があるのですが、それとは別にある方から童話作家小野浩についてメールでいただいた二次情報がありました。しかしとても残念なことに、そのメールはパソコンを変えた際に、とても残念なことに紛失?してしまいました。そのメールの内容をどこかに保存したような気もするのですが、これも行方不明です。もし、何か出てくればまたお知らせします。
かぐら川
保存してある旧「めぐり逢う言葉たち」を、引っ張り出して読んでみましたら、7年前の記事でしたが、その日記には当時、小野の生地の広島県立図書館に問い合わせメールを送ったことが書かれていました(7年前の自分の行動を完全に忘れていることにショック!)
が、広島県立図書館からの返答も充分に紹介しないまま、尻切れトンボの内容になっていました。この広島県立図書館からのメールも行方不明!です。
hamagaki
かぐら川さま、ごぶさたしています。
書き込みをいただきまして、ありがとうございます。
じつは、上の記事を書こうと「小野浩」についてネット検索をしている際には、貴サイト「めぐり逢うことばたち」で、以前に少し触れていらっしゃったのにも気がついておりました。
広島県立図書館にまで問い合わせをされていたとは、何か興味深い情報も得られたのでしょうか?
今はそのお返事も見つからないとは、残念ですね・・・。
またどこかから、ひょっこりと出てくることを期待しています。
それにしても私の場合は、上の記事最後に掲げた写真の書籍を書かれた草野心平の研究者にお世話になっていて、その人がくしくも同姓同名であるという縁があったのでこの童話作家が目にとまったのですが、かぐら川さんは、どんな経緯で小野浩という人と出会われたのでしょう。
いや、奇遇ですね。
かぐら川
hamagaki様、拙ブログに《小野浩のこと》を書き始めました。実は清六さんの回想文に、ちょっとした疑問を呈しています。
大正12年当時、小野氏は『赤い鳥』の編集に携わっていましたので、どう考えても『コドモノクニ』の「東京社」に小野浩氏がいたとは考えられないのです。ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
hamagaki
かぐら川さま、ありがとうございます。
《小野浩のこと-2》を拝読させていただきました。日付けの入った鈴木三重吉の書簡をもとにした推理で、説得力がありますね。
私も、上に引用した『鬼のゆびわ』あとがきに與田準一氏が、
と書いていることから、「東京社」勤務はどうなっているのだろう、と不思議に思っておりました。
となると、宮澤清六氏の記述のどこかが誤っていたということになり、具体的には、清六氏が賢治の原稿を持ち込んだというエピソードの
1) 時期が違っていた(小野浩氏の「赤い鳥社」退職後?)
2) 人が違っていた(清六氏が会ったのは小野浩氏ではなかった)
3) 場所が違っていた(「東京社」ではなかった)
のいずれかの可能性が考えられます。
このうち、時期に関しては、「清六氏が東京で下宿生活をしていた際の出来事」ということまで記憶違いとしてしまうのは、やや無理があるように感じられます。
また、清六氏が面会した人の名前を間違えて記憶していたというのは十分にありうる仮説ですが、しかしそれならば清六氏がことさら「小野浩」という固有名詞をはっきりと記していて、これが実在の人物名と一致しているのが、ちょっと不思議すぎます。
そして、清六氏が賢治の原稿を持ち込んだのが「東京社」ではなかったとすれば、それは実は、当時小野浩氏が仕事をしていた「赤い鳥社」だった、ということになるのでしょう。これは、上の二つに比べれば、不自然さが少ないように感じられます。ただ、賢治はこのエピソードの翌年にも、菊池武雄氏の仲介によって鈴木三重吉に原稿を送って、『赤い鳥』への掲載を断られたようですが・・・。
いずれにせよ、従来の賢治年譜の修正を要する可能性のあるご指摘だと思います。
今後のご考察を期待しています。
かぐら川
コメントをいただいたにも関わらず、時間がなくて申し訳ありません。いろんなことをご報告しないといけないと思いながら整理がついていません。なお、hamagakiさんの3つの選択肢でいうと、私は〔2〕の可能性が高いのではないかと考えています。小野は編集のかたわら創作もするようになりますから、《児童文学雑誌の編集者で童話作家“小野浩”》の名を、後に清六さんが知るようになったことは考えられると思います。
hamagaki
なるほど。清六氏が他のところで「小野浩」の名前を知っていたとすれば、それが年月の経過のうちに、自分が面談した相手の名前と混同されてしまったということは、ありえますね。
もう一度その辺の事情を清六氏に尋ねることができないのが、残念です。
いずれにせよ、私としても興味の尽きない問題ですので、また何かありましたらお教えいただければ幸いです。