先日の「新美南吉の引用した『春と修羅』」という記事に対するコメントとして、賢治の事務所員さんおよびネリさんが、南吉と賢治の関連について興味深い情報をお寄せいただいていました。
そこでは、賢治が亡くなった翌年に東京で開かれた「宮澤賢治友の会」の記念写真が話題になっていましたが、このたびご親切にもネリさんが、その「賢治友の会」の時に写されたと思われる貴重な写真を、私のもとへ送って下さいました。ネリさん、本当にありがとうございました。
で、下の写真がそれです。
1934年2月16日に新宿「モナミ」で開かれたこの会は、草野心平編による『宮澤賢治追悼』の出版記念会であり、かつその後も東京で開かれる「宮澤賢治友の会」の第一回とも位置づけられ、また『宮澤賢治研究』という雑誌の発行母体の出発点でもあるようです。
ネリさんによれば、これまでこの写真が作家アルバム等に掲載されていた際の「人名解説」には誤りがあったということで、2001年にイーハトーブセンターで開かれた「草野心平展」においてこの写真が展示された時にも、誤りを正す作業がぎりぎりになったため、図録に訂正の紙葉を挟み込むという形で、なんとか周知が行われました。
この写真における正しい人物名は、
前列右より、折居千一、瀬川信一、永瀬清子、菊池武雄、宮澤清六、高村光太郎、岡村政司、八重樫祈美子、梅津善四郎、
後列右より、巽聖歌、新美南吉、神谷暢、右京就逸、鱒沢忠雄、深沢省三、土方定一、草野心平、尾崎喜八、逸見猶吉、吉田孤羊、儀府成一
ということです。
ネリさんの評価としては、「在京岩手県人会のごとき、岩手出身の芸術家+草野心平を中心とする詩人仲間の混成という感じ」で、そしてまた佐伯研二さんによれば、「在京県人の熱心さが他を圧倒していたようだ」ということです。
私は知らなかったのですが、従来の写真解説では、後列で新美南吉が右京就逸と入れ替わっていたとのことで、これはかなり大きな間違いですね。正しくは、新美南吉はやはり巽聖歌の隣に立っていて、後に女学校生から人気を博したという、細面の渋いマスクも見てとれます。
賢治の没後、まだ5ヵ月ほどの東京の冬ですが、狭い部屋を包んでいる熱気のようなものを感じます。
ここに、現在の私たちにまで続く賢治への思いが、すでに胚胎されていたのでしょう。
賢治の事務所員
浜垣さま、ネリさま
こんばんは。
先にコメントした曖昧な記憶を繋いでくださり誠にありがとうございました。今度新宿のモナミ跡(?)を訪ねてみようと思います。
hamagaki
賢治の事務所員さん、こんばんは。
今回は、ネリさんが本当にご親切にも、写真を送って下さいました。お二人のおかげで、私もそれまで知らなかったことを、いろいろと勉強することができました。
ありがとうございました。
「モナミ跡」も、楽しみにしています。