自働車は飛ぶ

 賢治が森荘已池氏にに語った逸話として、次のようなものがあります(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.295)。

―― トラックが川井か門馬まで来た時ですがね、小さい真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが、わいわい口々に何か云いながら、さかんにトラックを谷間に落とそうとしているんですよ。運転手も助手も、それに全く気がつかないと見えて知らないんですね。私はぞっとしましたよ。トラックが谷間に落ちるに違いないと思ったんですね。そしたら驚きましたねえ。大きな、そうですね、二間もあるような白い大きな手が谷間の空に出て、トラックが走る通りついて来てくれるんですよ。いくら小鬼どもが騒いで落とそうとしても、トラックは落ちないで、どんどん危ない閉伊街道を進むんですね。私はこれはたしかに観音さまの有難い手だと思い、ぼおっとして、眠っているのか、起きているのか、夢なのか、うつつなのかもさっぱり解らないんですね。そして宙に浮いてさかんに動き廻り、トラックを押したり、ひっぱったりする小鬼どもと大きな白い手を見比べていましたね。しばらくそうしてガタガタゆすられていると、突然異様な声がして、ハッと思ったとたん白い手は見えなくなったんです。私はもう夢中でトラックから飛降り、その瞬間トラックは谷間をごろごろと物凄い勢いで顛落してしまったんです。運転手も助手も慣れているのか、ひらりと飛降りたらしく危なござんしたねと云って、谷間を見降ろしていましたよ。そのトラックには宮古町から肴が沢山つけて来てありましたよ。

 谷間に転落する自動車から、間一髪で飛び降りて怪我一つないとは、アクション映画スター顔負けの身のこなしですが、それまでにずっと「鬼の子」と「観音様の手」が見えていたというのは、ある意味で賢治らしい宗教的な幻覚です。
 これはいったいいつの出来事だったのかということに興味が湧きますが、森荘已池氏は、続いて次のように書いています。

 その時宮沢賢治氏は、宮古町の在の刈屋という村へ行ったのではなかったかと思う。『春と修羅』刊行の大正末年の頃のことである。旧姓刈屋を名乗る令妹のお婿さんが県庁の教育課に務めているので、その出身の下閉伊郡刈屋村の家へ、縁談の用で出かけての帰途宮沢さんは雨に濡れ、風邪から肺炎になりそうで、あわててトラックの後に乗せてもらって帰りの途で「熱は39度から40度はあったでしょう」と云い、「幻覚ですね」と云われたけれど、「鬼神」については滅多に語ることのない宮沢さんから聞いた、これは一番鮮明な「鬼神の話」なのであった。

 上記の文章で、「刈屋という村へ行ったのではなかったかと思う」というのは森荘已池氏の推測のようなのに、後半では賢治の談話のような書き方になっていて、どこまでが直接賢治が述べたことなのか判断しにくいです。しかし少なくとも森氏は、末妹クニと刈屋主計の縁談に関する用事で、賢治が閉伊街道沿いの刈屋村へ行った際のことだと考えているようです。
 ただそうすると、賢治と刈屋主計が初めて出会ったのは、1927年(昭和2年)3月ということですから(宮沢淳郎『伯父は賢治』p.77)、「『春と修羅』刊行(=1925年)の大正末年」という記述とは、ずれてしまいます。縁談の話だとしたら、賢治の刈屋家訪問は、婚約がまとまった1927年(昭和2年)秋頃と考えるのが自然です。

 さて、盛岡と宮古を結ぶ閉伊街道は、岩手県の中心部と太平洋岸をつなぐ重要な交通路で、従来は徒歩では3日かかっていたところを、1906年(明治39年)から「盛宮馬車」が12時間で、さらに1913年(大正2年)から営業開始した「盛宮自動車」が8時間で結ぶようになりました。これは岩手県内で最初の乗合自動車路線で、当初は16人乗りの大型自動車(バス)2台とトラック2台で運行を始めたということです(みやこわが町ミヤペディア「盛宮自動車株式会社」より)。
 しかし、この道は狭く険しい悪路で、大型自動車の運行にはかなりの無理があり、1914年(大正3年)7月に門馬村で客車が転覆し、乗り合わせた新渡戸稲造氏の一行が負傷したり、翌1915年(大正4年)10月には川内村での転覆事故で死者1名が出るなどの事故が続いています。
 賢治が災難に遭ったのも、この危険な街道においてだったわけです。


 ところで賢治は、これ以外にも自動車の転覆事故に遭っていたようなのです。『新校本全集』年譜篇によれば、1925年(大正14年)秋、農学校教師だった賢治は、千厩で開かれた「岩手県農業教育研究会」に参加し、県視学だった新井正市郎に会います。以下は、新井の記述から。

 千厩の旅館についたところ、しばらくして先着の客を女中が案内して来、その客が宮沢と名のり、「県視学も明日は出席するそうですなあ」と言ったので、「私がその県視学です」と答えた。
 「初対面の私達が10年の知己のように打解け得たのは、二人はほぼ同年であり、私も就任日が浅くまだ役人らしくなかったためであろう。――当時の役人には、一種の型があった――宮沢さんは薄衣で下車され千厩までの乗合バスが途中で横転して桑畑に落ちたが、誰も怪我がなかったことや、いつぞや室根山に一人で登った話などは、私を深く引きつけた。眼前に彷彿させるような話術には虚飾がなく、又肉眼に見えない霊の存在については固い信念を持って居られた。一旦、自室に帰られてから夕食後再び来訪された」

 何とこの時も、乗合バスの横転事故を経験したというのです。「横転して桑畑に落ちたが誰も怪我がなかった」ということで、こちらは先ほどの谷に転落した事故よりはやや危険度は低かったようですが、その後どうやって千厩までたどり着いたのだろうかと思います。


 ちなみに、賢治のこんな記録をあえて拾い出してみた理由は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」という作品に出てくる「すさまじい自働車」という表現には、自動車に乗っていて体験したこういう「すさまじい」体験も、こめられているのだろうな、とあらためて思ったからです。
 賢治にとっては、当時の「自働車」というのは本当にダイナミックな乗り物だったのでしょう。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊嵓先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ