喪中の賀状

 もうこの時期までには、何人かの知人から「喪中欠礼」の葉書が舞い込んできて、ああ、今年この人の身内にはこういうご不幸があったのかと、しばし思いにふけったりする師走でもあります。
 ところで、この「喪中欠礼=喪中につき年始の挨拶を遠慮する」という習慣に関しては、どの範囲の親族の死までが対象となるのか、喪中の期間はどれだけなのかなどいろいろな考え方はあるようですが、現在の一般的な慣例は、以下の如くだそうです。

  • 死去の際に「喪中欠礼」とする親族の範囲
      夫・妻
      父母・義父母
      子
      生計を共にしている兄弟・姉妹
      生計を共にしている祖父母
      生計を共にしている孫
  • 「喪中」の期間
      1年=すなわち上記近親者が亡くなった翌年の年始挨拶を遠慮

 歴史的なことを調べてみると、近代日本で「喪」とか「忌」とかについて公式に定めたものとしては、1874年(明治7年)の「太政官布告第百八号」に行き着くそうです。

○第百八号 太政官(十月十七日)
服忌ノ儀追テ被仰出ノ品モ可有之候得共差向京家ノ制武家ノ制両様ニ相成居候テハ法律上不都合有之ニ付自今京家ノ制被廃候條此旨布告候事

 これは、当時は服忌の制度に「公家式」と「武家式」の二種類があったのを、その後は簡略な「武家式」に統一するということを布告したものです。
 それではその「武家式」の服忌制度というのがどういうものであったかというと、江戸幕府が元禄期に定めた「服忌令」という規定に、次のように記されているということです。

父母の死      忌中50日間  喪13ヵ月間 (子が服する)
養父母の死     忌中30日間  喪150日間 (子が服する)
継母継父の死   忌中10日間  喪30日間 (子が服する)
夫の死        忌中30日間  喪13ヵ月間 (妻が服する)
妻の死       忌中20日間  喪90日間 (夫が服する)
嫡子の死      忌中20日間  喪90日間 (親が服する)
夫の父母の死   忌中30日間  喪150日間 (妻が服する)
祖父母の死    忌中30日間  喪150日間 (孫が服する)
母方祖父母の死 忌中20日間  喪90日間 (孫が服する)

 儒教的な道徳を反映して、「父母」が何より尊重され、また妻よりも夫が重視されています。妻の父母が亡くなっても、夫は喪に服する必要はないが、逆の場合は「忌中30日間・喪150日間」です。これは妻を亡くした夫の服喪よりも長い期間ですね。
 何よりも、これではあまりにも煩雑なので、現在は初めに述べたような「慣例」になっているのでしょう。

 というような事柄をなぜ調べたりしていたかというと、賢治の時代の年賀状の「喪中欠礼」の習慣がどのようになっていたのかということを、知りたかったからです。
 しかし、当時に実際にどんな慣行が通用していたかということは、ネットで調べた程度ではわかりませんでした。


 さて、1917年(大正6年)9月16日未明、賢治の父方祖父の宮澤喜助が亡くなりました。この時、賢治が祖父の死を看取ったことは、歌稿において「祖父の死」と題された数首に記録されています。

607 香たきてちゝはゝ来るを待てるまにはやうすあかりそらをこめたり
608 足音はやがて近づきちゝはゝもはらからも皆はせ入りにけり
609 夜は明けてうからつどへる町の家に入れまつる時にはかにかなし

 しかし、この翌年の1918年(大正7年)に、賢治は保阪嘉内に宛てて年賀状を出しているんですね。

1918年の嘉内あて年賀状

 現代の慣例の「生計を共にしている祖父母」の「1年以内」の死に該当し、また明治初期に追認された「服忌令」による「祖父母の死」の「喪150日間」にも含まれている正月ですが、この頃には現代ほど、「喪中欠礼」などという習慣が一般的ではなかったのでしょうね。

 まあ、どうでもいいようなことですが、いちおう季節ネタでした。