東京デオ目ニカゝッタコロ

 賢治の保阪嘉内あて書簡を読んでいて、ちょっとわからなかったところがありました。
 『新校本全集』では「書簡166」とされている、1920年(大正9年)7月22日付けの嘉内あての封書に、次のような箇所があります。

コチラノコトモ書カナイト変デスカラ書キマセウ。私ハ曾ッテ盛岡ノ終リノ一年半アナタト一諸ニイロイロノ事ヲシタコロカラモハヤ惑ヒマセンデシタ。(タシカニワレワレハ口デコソ云ハネ同ジ願ヲタテタ筈デス。) ケレドモ今日ニナッテ実際ニ私ノ進ムベキ道ニ最早全ク惑ヒマセン。東京デオ目ニカゝッタコロハコノ実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタノデス。

 この賢治の文に出てくる、「東京デオ目ニカゝッタ」というのは、賢治と嘉内が東京で会った、ということ以外に解釈しにくいと思いますが、具体的にはいったいいつのことを指しているのだろうかというのが、私の疑問です。

 賢治と嘉内が東京で会ったというと、賢治が家出中の1921年(大正10年)7月(18日?)の、あの重大な会見(最近はその時の出来事を「訣別」と呼ぶべきか否かが話題になっています)が、まず何よりも思い浮かびます。これまで私は、二人が「東京で」会ったのはその一回だけかと思っていたのですが、上の賢治書簡を素直に受けとれば、その前年の7月以前にも、東京で会っていたことになります。

 ただ、現在わかっているかぎりでは、1921年以前に賢治が東京に行ったのは、下記の5回だけのはずです。

  1. 1916年(大正5年)3月20日~22日
    盛岡高等農林学校修学旅行で、西ヶ原農事試験場、駒場農科大学等を見学。この後、関西方面へ。
  2. 1916年(大正5年)7月31日~9月2日
    「独逸語夏季講習会」を受講。途中から高橋秀松も同宿。この後、秩父地方地質調査見学に合流。
  3. 1917年(大正6年)1月4日~5日
    叔父宮澤恒治とともに家業の用事。6日に横浜に寄って帰宅。
  4. 1918年(大正7年)12月26日~1919(大正8年)年3月3日?
    母イチとともに妹トシの看病。後半の時期には、図書館に行ったり国柱会の田中智学の講演を聴いたりする。
  5. 1921年1月24日~8月?
    突然の家出上京。7月に保阪嘉内と会見。

 上記のうちで、1. はまだ保阪嘉内と出会う前、5. は冒頭の「書簡166」より後ですから、当然該当しません。また、2. と 3. の上京中には、それぞれ郷里の駒井村に帰省している嘉内に対して東京の様子を知らせる書簡を送っていて(それぞれ「書簡19」と「書簡28」)、日程からはこの間にも東京で嘉内に会ったとは、考えにくいところです。それに、この頃の賢治はまだ学生で、卒業後の「実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタ」様子は、当時の書簡等からは見受けられません。

 残るは、4. のトシの看病の折です。
 嘉内の方のこの頃の動きを見ておくと、すでに1918年(大正7年)3月に盛岡高等農林学校から除名処分を受け、4月から上京して明治大学に籍を置き再度の受験勉強をしていましたが、母の死などもあって故郷で農業に従事する意思を固め、11月には帰郷します。
 この年の大晦日に、賢治は駒井村の嘉内あてに、妹の看病のため上京していることを知らせていますが(「書簡102」)、その中で「あなたと御目にかゝる機会を得ませうかどうですか。若し御序でもあれば日時と時間を御示し下さい。」と、面会を望む気持ちを伝えているところは、注目されます。
 1919年の嘉内は、『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』によると3月4日から12日まで、元同級生の河本義行らの卒業を祝うために、山梨から盛岡に行きます。この際に東京も通過したはずですが、上の賢治のスケジュールを見ていただいたらわかるとおり、二人はギリギリですれ違ってしまうかどうかという日程です。

 というのが、4. の前後の嘉内の動静で、この間にも二人が会ったという証拠は、何もありません。しかし賢治が「東京デオ目ニカゝッタコロハコノ実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタノデス」と書いていることとの関係では、確かにトシ看病上京中の賢治は、将来の職業について父親と意見が合わず苦しんでいたのです。「東京で、宝石を研磨したり飾り物を作ったり人造宝石を造る工房をやりたい」と父に頼み込むのですが、そんな見通しの甘い計画を、現実家の父は許しませんでした。
 つまり、この頃の賢治が「実際ノ行路」で迷っていたという記述内容には、合致するのです。

 結局、もし賢治と嘉内が東京で会ったとすれば、4. の期間だった可能性が最も高いと私は思うのですが、やはりはっきりしたことはわかりません。