「祭日〔一〕」詩碑アップ

 先月に花巻の東和地区で見学してきた「祭日〔一〕」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

 この「祭日〔一〕」という文語詩は谷内権現(現在の丹内山神社)の参道が舞台となっていますが、その参道にある「二の鳥居」の下に、詩碑は立てられています。
 丹内も谷内も「タンナイ」と読みます。「・・・ナイ」とはいかにもアイヌ語に由来する言葉のような雰囲気で、実際に「タンナイ」という地名は青森県田子町や北海道足寄町にもあり、アイヌ語の「タク・ナイ」(=「玉石の川」)あるいは「タンネ・ナイ」(=「長い沢」)から由来しているという説があるようです。
 さらに詩碑のページにも書いたように、坂上田村麻呂自身もこの神社に参籠したという伝説があったり、境内にある巨杉の根株(御神木爺杉)が樹齢2000年と言われている点など、この神社の前身は、このあたりに朝廷の支配が及ぶ前、すなわち「蝦夷」の時代から、何らかの信仰の聖地になっていた可能性もあります。

 遠野出身の民俗学者、伊能嘉矩の「谷内権現縁起古老伝」によれば、この神社の由緒は、次のように語り継がれていたということです。

 当社(丹内山神社)の大神は地祇なり。同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す。赤子にして猿ヶ石川を徒渉し、岸上の峻山に這ひ登り、其の巓の円石を秉[と]りて誓つて曰く、「当に今此石を以て礫に擲[な]げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし」と。則ち礫に擲ぐ其の石現地に落ち止まる。因りて万代の領地と定め、該石を以て神璽と為して後世に伝ふ。然るに蒙昧の世、其の祭式を伝へず、惟り奇物あり天然の小石数十今に境内に存す。按に大神円石を愛し、以て神璽と為す。故に神愛を追慕して奉納を為す所か。近世に至る此の例あり。其の這ひ登る山を赤児這[アカゴバヒ]山と謂ふ。今赤這と謂ふは訛れるなり。郷民其の巓を小峻森[チヨンコモリ]と称して之を敬ふ。

 巨石信仰に由来するということのようで、実際に丹内山神社の境内の一番奥には、今も「胎内石」という巨岩が鎮座しています。

丹内山神社「胎内石」

 写真からはその大きさがわかりにくいでしょうが、幅11.6m、奥行き9.3m、高さ4.55mあるそうで(「花巻の文化財」より)、目の前に行くと圧倒されるような巨大さです。

丹内山神社「アラハバキ大神の巨石」説明板 また、この岩の脇の方には、右のような看板が立っていて、この岩のことを「アラハバキ大神の巨石」と説明しています。
 「アラハバキ大神」というのも不思議な神名ですが、諸説があるようで、Wikipedia でも紹介されています。やはり、蝦夷との関連を推測する説があるとともに、製鉄のことや物部氏の名前も出てきます。

 ここで、私としてどうしても思い出してしまうのは、高橋克彦氏の時代小説『火怨』です。
 まだ物語の初めの方で、後に蝦夷のリーダーとなる阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)は、物部二風の案内で、丹内山神社を訪れました。

 阿弖流為と母礼は二風じきじきの案内で東和の里を見回ることとなった。各地の長たちは直ぐに兵らを選んで東和に送り込むと約束して早朝に立ち去っている。二風は真っ先に東和の鎮守である丹内山神社を目指した。
 「東和の里を我らが本拠地としたのは・・・」
 馬を下りて丹内山の緩やかな坂道を登りながら二風は阿弖流為に説明した。
 「決して蝦夷の地の中心に位置しているからではない。この山にアラハバキの神が鎮座ましましておられるからじゃ。本拠を東日流(つがる)より東和に移したのは儂であるが、東日流に在ったときから丹内山は物部の聖地の一つであった。その神に守られている地ゆえ迷い一つなく移ることができた」
(中略)
 「この丹内山の磐座はとてつもなく大きい。恐らく陸奥で一番だろう。この地には必ずアラハバキの神の加護がある」
 二風に言われるまでもなく磐座は阿弖流為と母礼の視野のすべてを埋めていた。張られているしめ縄の太さは馬の胴体ほどもあるが、磐の大きさから見れば、それですら頼りなく感じられる。ただ絶句するしかなかった。斜面に社殿の屋根より遥かに高く岩の天頂が突き出ているのである。岩の表面はびっしりと苔が広がり、緑の色を発している。(『火怨』〈上〉p.114-117)

 準平原たる北上山地において、あの種山の頂上付近にある岩のように、地質学的レベルの年月の浸食に耐え、残丘(モナドノックス)の上にむき出しで残された岩・・・。
 この信仰の巨岩も、その一つなのかと思います。

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