「祭日〔一〕」詩碑

1.テキスト

   祭日

谷権現の祭りとて
     麓に白き幟たち
むらがり続く丘丘に、
    鼓の音の数のしどろなる
頴花青じろき稲むしろ
    水路のへりにたゞずみて
朝の曇りのこんにやくを
    さくさくさくと切りにけり

        宮沢賢治

  平成十一年十一月吉日
          小原 昇 建立
          菅 青峰 書

2.出典

祭日〔一〕」(「文語詩稿 一百篇」)

3.建立/除幕日

1999年(平成11年)11月 建立

4.所在地

花巻市東和町谷内 丹内山神社参道 二の鳥居下

5.碑について

 この詩碑は、花巻市東和地区の、丹内山神社参道の「二の鳥居」下にあります。土沢方面から県道284号線をやって来ると、まず右手に赤い「一の鳥居」があって、しばらく行くと、こんどは左手のやや奥に、この石造りの「二の鳥居」があります。
 賢治の文語詩「祭日〔一〕」(『文語詩稿 一百篇』)に出てくる「谷権現」とは、「谷内権現」のことで、現在の丹内山神社のことだったのです。
 ところで、「谷内」も「丹内」も同じく「タンナイ」と読みますが、この社祠の「丹内山神社」という名称は、明治初頭の神仏分離以後に名づけられたもので、それ以前は「谷内大権現」と呼ばれていました。この詩にあるように、明治以後も地元の人にとっては、やはり「権現さま」であり続けたのですね。(ちなみに「権現」とは、「(かり)に神となってれる」、ということで、神道の神の姿をしていてもその「本地」は「仏」であるという、仏教的な「本地垂迹説」に基づいた考え方です。)

 一方、「タンナイ」という言葉からは、何となくアイヌ語の響きを感じます。これは青森県田子町や北海道足寄町にも残っている地名で、アイヌ語の「タク・ナイ」(=「玉石の川」)あるいは「タンネ・ナイ」(=「長い沢」)から由来しているという説があるようです。
 いずれにせよ、この丹内山神社・谷内権現への信仰は、坂上田村麻呂の東征以前から、すなわちこの地に「蝦夷」と呼ばれた人々が中央から相対的に独立して暮らしていた時代から、続いていた可能性が推測されます。
 神社の入口にある下のような説明板にも、下のようなことが書いてあります。

 すなわち、「延暦年間、坂上田村麻呂が東夷の際に参籠される等、日ごと月ごとに霊験あらたかで……」とあって、坂上田村麻呂がこの地にやって来た時に、すでに何らかの祭祀がなされていたということになります。もっとも、「夷敵」の征服に来た田村麻呂が、ほかならぬその敵が尊崇している神に参詣するというのはちょっと不自然で、この伝承そのものの信憑性にも疑問はありますが。

 また、下写真のような境内にある「爺杉」という巨大な杉の根株は、大正2年に焼失した杉の古木のものだということですが、この杉の樹齢は「約2000年」とされていて、これも事実であれば、坂上田村麻呂の時代よりもはるかに古いことになります。田村麻呂がこの地を訪れたとすれば、その当時でもすでに樹齢800年という巨杉だったことになるわけですね。

 その歴史の淵源はともかく、丹内山神社はこの現代においても、田舎の風景の奥に忽然と異空間のように現れる不可思議な世界で、何かただならぬ雰囲気を感じさせます。

◇          ◇

 作品を見ると、イネの「頴花」(作品中では「はな」と読ませている)が登場し、この祭の時期がちょうどイネの開花期にあたっていたことがわかります。現在の岩手県地方におけるイネの「出穂期」はだいたい8月上旬で、出穂から開花までは、その日のうちかせいぜい1~2日以内だそうですから、作品中に描かれているのは、8月上旬の景色かと思うところです。ただし、下書稿の中には「秋の白雲」との表現が出てくる箇所もあります。
 ちなみに、丹内山神社の例大祭は、現在は毎年9月上旬に行われています。

 神社の祭りの朝、白い幟が立ち並び、太鼓の音が丘丘に響いて、わくわくする一日が始まります。参道では、いろいろな露店の準備も行われているのでしょう。
 その露店の一つで、近所の農家のおかみさんでしょうか、煮物を作るためにこんにゃくを切っています。「さくさくさく」という包丁の音も心地よく、祭りの日の心躍るような雰囲気を映しているかのようです。