仏教を知らなかったら

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 小倉豊文氏の、「二つのブラック・ボックス―賢治とその父の宗教信仰」(『宮沢賢治』第2号, 洋々社)という文章の中に、次のような一節があります。

 その政次郎翁が問わず語りに「私が仏教を知らなかったら三井・三菱くらいにはなれましたよ」と、苦笑まじりに言ったことを私は確かにきいている。

 この政次郎氏の言葉は、その後もよく引用されて有名になっていますが、その「苦笑」の意味は何だったのでしょうか。なまじ仏教など知ってしまったばかりに資本家に徹しきれなかった自らに向けられているのか、あるいは逆に「外道」のように利潤追求に明け暮れる当時の財閥の姿に向けられているのか…。いずれにしてもこの言葉は、政次郎氏という人の一筋縄ではいかないようなしたたかさを示しているように思えます。
 それにしても、これだけの大言をさらっと言えるというのは、すごい自信ですね。また実際の商売においても、きっと政次郎氏はそれだけの手応えを感じていたのでしょう。

 一方、同じ文章の別の場所で、小倉豊文氏はまた次のようなことも書いています。

 ある時、翁はしみじみとした口調で、賢治が早熟な子であり、仏教を知らなかったら遊蕩児になってしまったろうという意味の述懐をしたことがあった。この時、私は無遠慮に「私はなまじ仏教を知らなかったら、日本はすばらしいボードレールのような大詩人をもったと思いますよ」と放言したのであったが、翁は語をついで「何しろ私が色欲旺盛な頃に生ませた子ですから、因果な子ですよ」と真顔でしんみりつぶやいたので、ヒヤリさせられたことを忘れない。賢治は父が二十二歳、母が十八歳の時に結婚した翌年に生まれたのである。だが、それを直ちに賢治の早熟な天才と因縁づけ、我が身の罪悪・妄念の結晶と考えている政次郎翁の信仰には、私は全くついてゆけぬものを感ぜざるを得なかった。

 ここにあるのは「親の因果が子に報い…」という発想のようで、これを小倉氏は「政次郎翁の信仰」と見なしています。しかし、仏教の正統的な教義にこういうことが説かれているわけではないでしょうから、当時はこういった俗信があったのでしょうか。
 それにしても、賢治を聖人君子のように思う人からすると、びっくりするような見方でしょうね。

 いずれにせよ、政次郎氏の「仮説」によれば、もしもこの父子が仏教を知らなかったら、父は三井・三菱クラスの財閥を築き、そして息子はその財産を遊蕩に費やしてしまっただろう、というわけです
 この会話において小倉氏が、やはり父の遺産をもとに散財のかぎりを尽くし、あげくは準禁治産者とされたボードレールの名前をとっさに出したのは、まさに鋭い着想という感じですが、私としては、そういった「もう一つの賢治の生涯」や、その場合にどんな作品を書いただろうということにも、興味を覚えざるをえません。

 ところで先月、「チップの払い方」という記事において、賢治が女給や芸者に非常識なほど多額のお金を渡してしまう癖があったことを書きましたが、この小倉氏の文章には、そのような賢治の振る舞いのルーツとなるようなことも書かれています。

 賢治の家のある豊沢町の東側に並行した裏町通には遊女屋が並んでいた。当時、遊女たちは「籠の鳥」といわれていて、自由に外出が許されない。そこで金に困ると店の遣手婆が遊女にたのまれて衣類を宮沢の店に入質にもって来るのが常であった。そんな場合に賢治が店に居合わすと「かわいそうだ。世の中が不公平だ、父の家業がいやだ」といって、オイオイ泣き出すので、妹のシゲさんがいつもなだめるのに骨折ったとのこと。これは私がシゲさんに直接聴いたことである。入質に来た人の言うままに金を貸してやって、父に「あれでは店がつぶれてしまう」と叱られた話は、今まで多く伝えられているところだ。

 一人前の社会人になってからも、不幸な境遇の女性を見ると、金を渡さずにいられなくなるというのは、上のような環境や体験ともどこかでつながっているのでしょう。

 そして、もしも賢治が「遊蕩児」になっていたら、遊女や女給に「金を渡す」だけでなくて、「情けをかける」ということにも、ならざるをえなかったでしょう。ただしその場合、たとえ金はいくらあったとしても我が身は一つですから、社会的にはのっぴきならない状況に陥ることもあるのが、世の常です。
 同じ北東北の富裕な家に生まれた太宰治が、21歳の時にカフェの女給と心中未遂事件を起こし(女給は死亡)、その後も何度か心中未遂、最期は既遂に至ったことを、ここでちょっと連想してしまいます。太宰治もキリスト教や聖書に強い関心を持ちながらも、賢治にとっての仏教のような信仰には至らなかったわけで、もしも賢治みたいに宗教に染まりきっていたら、別の人生や作品があったのでしょう。しかしそれでは、私たちの知っている「太宰」ではなくなってしまいますね。
 一方、賢治だって「自己破壊的」な傾向を秘めていましたから、もしも宗教なしに遊蕩の道に入っていたとしたら、太宰のように自ら身を滅ぼすような行動に走った可能性も、十分にあったような気がしてしまいます。

 あるいは私は、井原西鶴の『好色一代男』の世之介のことも連想します。考えうるかぎりの遊蕩児の極致とも言うべき世之介も、生野銀山の一山を所有する父の遺産を相続してからは、散財のかぎりを尽くしました。34歳で母から銀2万5千貫目を受けとった世之介が、「これはとおもう女はすべて請け出し、名高い女郎衆を残らず買わずにおくものか」と宣言するスケールは、女給や芸者に法外なチップを渡す賢治とは桁が違いますが、一つだけ現実の賢治と世之介の共通点もあります。

 それは、二人とも、後継ぎの子孫を残さない「一代男」だったところです。